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第一話 逃亡
雷鳴がとどろく。
もはや雪の到来を待つばかりのこの北の果てにあるダザンの王宮で、刃が抜き放たれた。
それは王の嫡男、ベアゴールの手によって行われた。
向かうは王の首筋。つまり、彼は今しがた父に手をかけたばかりであった。
それも、実の弟、ジリアスの目の前で。
手が迸る血で汚れるのも気に止めず、兄は王の胸ぐらを掴んだまま弟に目をやった。立ち尽くしたままのジリアスは、彼の瞳が物語る強烈な怒りを肌で感じ震えが止まらなかった。
「ほら」
兄が言った。
深紅に染まった剣の柄をジリアスに差し出す。ごくりと、湿ってもいない喉を鳴らした。
「どうした?お前も刺せよ。でないと、この老いぼれの苦しむ時間が長引くだけだぞ」
「さ、刺すって」
胸の前で組んだ両手にぎゅっと力がこもる。手も、声も震えていた。
「刺すって、父さんを……」
「王だ」
ベアゴールは再度目線を落とす。ひゅうひゅうと苦しげに喘ぐ蒼白の王の顔を、ひどく冷えた表情で見据えた。
「王はいつまで経ってもこの国を閉ざし、他国からの侵攻にも、こちらからのそれにも目を瞑る。不滅であることを望むのは結構だが、ぬるい温室に慣れ甘んじているようではいけない」
「だからって、殺すなんて……」
ジリアスは僅かに後退した。
小さな拒否の姿勢を目にした途端、兄は眉間に深い皺を刻んだ。改めて睨みつけられ、ジリアスは足を止めざるを得なかった。ただでさえ、王の流れる血潮の臭気に眩暈がしているというのに。
―――怖い。兄さんが。
兄に掴まれ、横たわる体を無理やり持ち上げられた格好の父を見やる。こちらから表情は見えない。だがもう身動きはほとんどしていない。その力は残っていないようだった。
「お前だって思っているだろう。なぜ隣国のイースルに遅れを取っているのか、向こうは国の規模だけで北大国などと謳われ、こちらは小国の嘲りを受けているのか。全てはこの王が愚図で役立たずだからだ」
「そんな……」
そんなこと思っていない。けれど、口に出せるはずもない。
兄は続ける。
「俺が王になれば、この国は流される血の栄光のもと永遠にその名を世に知らしめられる。この意味がわかるな。お前、俺の弟ならば当然協力するだろう」
ジリアスは困惑した。
わからなかった。他国なんてどうでもいい。自分と、自分の周囲が安全であればいいのだ。だが今、それが脅かされている。それも内側から。
―――言われた通りにしないとだめだ。そうしないと、また兄さんは僕に幻滅をするに違いない。だから……。
震える足でおどおどと歩み寄る。兄の手には依然として剣が握られており、やや足元に落ちているが、まだジリアスに差し出されたままだった。
切っ先から流れる血が兄の靴を汚す。彼はそれを気に留めていない。
あの剣を掴んで、王にとどめを刺す。それこそ兄が望む理想の共犯者たる弟。
ぴしゃ、と靴のつま先に血が滲む。じわじわと地肌へと侵入してくる生暖かい感覚に、吐き気を催した。ゆっくりと、だが確実に自分は罪へと身を投げている。
剣を貰おうとする手ががたがたと震えている。氷につけたように指先がおぼつかない。
息が荒い。荒漠としたダザンの冷気に煽られ、乾燥した喉が余計に締め付けられる。もう飲み込む唾液すら出てこない。
「ぐ……」
王の息が漏れた。はっとして宙に浮いた手をそのままに見下ろすと、しっかりと彼と目が合った。
口の端から血がしたたり落ちる。瞳は黒く、恐怖や痛みから解放され、落ち着いていた。死に向かう最中で、ただまっすぐ息子を見つめている。
父が死ぬ。愛していた父が。自分の国の王が。
実の息子たちの手によって、殺されてしまうのだ。
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