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背後で震えるジリアスの恐怖を感じ取り、アルタスはこれ以上の糾弾を控えた。もはやベアゴールの目は閉じ、耳は塞がってしまっている。
弟を殺し、己だけが頂点に立つ。この大義だけが兄の心を占めていた。
何としても阻止しなくてはならない。目の前で主人が殺されるなど、あってはならないのだ。
彼はジリアスに言った。
「あなたは?」
その言葉にジリアスはびくっと震えた。
「あなたは次の王になる気はありますか?」
ジリアスは押し黙った。このまま死ねば本望なのに。
―――位が惜しいわけじゃない。そんなのどうだっていい。僕が死ねば全て終わる。なのに、どうして。
じれったそうにもう一度同じ言葉で問われると、ジリアスは小さく声を漏らした。
「……わからない」
「わからない?私は今、命を懸けてあなたに問うているのですよ。なぜ私がこんなことをしているのか、それもわからないと言うのですか?」
はっとしたようにジリアスは目を上げた。目の前にいるのは無機質な盾ではない。ジリアスを慕い、守ろうとしてくれている人間なのだ。
自分が死んでも終わらない。兄はきっとアルタスを殺すはずだ。兄がこの期に及んで放免するはずがないし、アルタスとしてもこのまま主人が死んですぐに鞍替えをするなど自尊心が許さない。
―――死を、選んではいけない。
涙を流し続けて赤らんだ薄い皮膚が、ぴくぴくと震えている。やがて堰を切ったように口を開いた。
「逃げて、アルタス!僕を連れて!」
アルタスは瞬時に剣同士の支配を解くとジリアスを抱えて王室を飛び出した。
「追え!」
ベアゴールが叫ぶ。するとどこに隠れていたのか、いっせいに彼の側についていた兵士たちが立ちふさがった。が、士師の力に一介の兵卒が敵うはずもなく、走る速度に身を任せ体当たりされるとすぐに吹き飛んだ。中には抜身を放った者もいたが、誰一人としてアルタスの足を止められるものはいなかった。
―――いつの間にこんなことに。
ジリアスはアルタスの肩越しに見える兄の味方を見て、苦しくなった。昨日まで笑いかけてくれた兵士たちが、今は黒い感情を露わにしてジリアスを睨みつけている。殺してやろうと追いかけてくるのだ。
しかしアルタスのほうがずっと足が速く、その距離は遠ざかるばかりだった。
「キリオン!馬を!」
アルタスが叫ぶと、出口間際で待機していたもう一人の従者が現れた。背中に垂らした長い黒髪が一つにまとめられている。それを揺らしながら、足早に向かってきた。
「遅いぞ、アルタス!時間がないんだ!」
「わかっています。文句は後で聞きますから、ジリアスを」
すでに逃げ出す準備が整えられた荷物と、黒い外套を手に持っている。キリオンはおぶられていたジリアスの手を取り、乾いた地面に着地する足元を助けた。
ジリアスを馬に乗せると、下からその外套を手渡す。流されるままにジリアスがそれを身に着けると、アルタスもその馬に跨った。
けれど、キリオンはその場に立ったままでいる。
「キリオンは?」
ジリアスが震える声で訊ねると、キリオンは険しい表情のまま言った。
「戦えない民を逃がします。俺は大丈夫です。うまく立ち防ぐくらいわけない。それよりも俺は、あなたに無事であってほしいんです。もう泣かないでください」
「でも、もしだめだったら」
「始まる前から諦めないでください。俺たちのジリアス、あなたが再びこの国に戻って来ることを祈ります」
両手を胸に当てる。この血塗られた国に、一体神の慈悲はあるのだろうか?その仕草が苦境の最中で、悲しく目に映る。
キリオンはジリアスに向かって微笑み、また険しい顔に戻すと彼に付き従っていくアルタスに向かって言った。
「ではアルタス。必ず無事に連れて帰ってこい。従者の役目と士師の誇りを忘れるな」
「ええもちろん。そちらこそ五体満足で生きていられるように、ちゃんと考えて行動してくださいね」
「ふん、減らず口め」
最後に言葉を零すと、キリオンは思い切り馬の腹を叩き、それと同時に馬は勢いづいて走り出した。
ジリアスは遠くなるキリオンの黒い影をずっと見つめていた。そして虫のように石造りの王宮から溢れ出た人の群れを。
荒涼としたダザンの国は、かつての歴史を追うように再び血で染まることになるだろう。
愛した者たちの血で汚れる故郷。
まるで彼らの始祖、最初の王がそうしたように。
ジリアスは再び溢れ出そうな涙をぐっと堪える。国に残ったキリオンの祈りは、ジリアスの悲壮な心境を煽るだけだった。
空を見上げると暗雲が立ち込め星はおろか月すらも覗かない。闇に満ちた国。憎くも、今はその漆黒が彼らに味方をしている。
馬は暗闇の中をただ一直線に駆け抜ける。
雲の切れ間、ダザンの領地の終わる先に輝く星を目指して。
その先にあるのは、友となるのを拒み続けた北大国イースルだった。
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