白鳥【1→2へ】

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白鳥【1→2へ】

青い空を舞う鳥の翼は、静かな冷気の中で輝く純白。 白は霊魂の色。それを身にまとった白鳥は、死者の魂を連れて行くという。 吐く息が白い。 真冬の盛りになるにはまだもう少し時間があるというのに、やはり早朝の空気は肌を貫くほどに冷たいのだ。 無音だった。窓に意識を向けても、冬の雪の朝はいつもしんとしている。 呼吸の音だけが静かに室内を満たす。温かい息を吐こうとすると、目の前に白い息がふわりと霞んだ。 ジリアスはしばし寝台に体を横たえたまま、身動き一つしなかった。肩まで毛布を掛け、じっと天井を見つめている。 が、廊下のほうから何かがやってくる気配がした。こつこつと足音を鳴らし、時折衣服のひるがえる重たい音も聞こえる。 たぶん、わざとだろう。そうやってジリアスを寝過ごさせまいと大きな音を立てているのだ。 しかたなしに、体を起こす。じわりと脇腹が痛んだ。 ジリアスはそっと衣服の裾をめくる。白い肌の上を走る、赤く腫れた爪の痕。狼に裂かれた傷痕。 傷はもう癒えていたが、冷たい空気が衣服の隙間から入り込むと、刃物の切っ先で撫でられたように痛むのだ。 服を戻したところで、部屋の扉が重々しく開いた。 「起きられましたか」 祭官の一人が迎えに来た。 前合わせの白い長物の正服を身につけ、肩に長く垂れる帯の色は黒。祭服である。白と黒が真逆なところ以外は、普段通りの衣装だった。 「刻限でございます。起きて、お召し替えを」 「……うん」 ジリアスは短く返事をする。 裸足のつま先を寝台に下ろそうとする。祭官は地面に肌がつく前に、靴を履かせようとした。その行為を忌むかのように、ジリアスは怪訝そうに足を引っ込める。 「いいよ。自分でするから」 「ですが……」 「靴ぐらい」 まだ何か言いたげな祭官に目線で説いて、ジリアスは白い靴に足を忍ばせる。かかとを踏んだまま立ち上がると、いよいよ祭官は慌てて両手で宙を掻いた。 「そのように履き潰してはなりません」 「別に、いつもしているよ」 「今日はいけません。さあ、片足を上げて」 露骨に子ども扱いされていることに、ジリアスは心なしか腹の底が熱くなった。煮えるほどでもない程度の微かな熱。 大丈夫なのに、という抗議は口にのぼる前にもう一人の出現によって阻まれた。 「怪我人なのだから、黙って甘えていたらいいでしょうに」 温和な笑みを浮かべながら、軍将軍のアルタスが部屋の扉の前に立っていた。祭官と同じく白い正服を身につけ、胸には黒曜石の徽章。右軍の大将を示す鳩が、異様に目立って見える。 ジリアスは少し口を尖らせた。 「もう傷は治ってるよ」 「そう仰って、先日無理に動いて傷口が開いたではありませんか」 「本当に、大丈夫だよ」 アルタスは祭官に目線を投げ、退出を促す。 二人きりになると、アルタスはようやく扉から離れジリアスの前に立った。片膝をついて、主人の顔を見上げた。 「座って」 慣れ親しんだ口調で言われ、ジリアスは無抵抗に寝台に腰を下ろす。アルタスはその足首に触れ、靴を脱がせた。へこんだかかとの部分を元に戻すと、今度はそれを自分の手で履かせた。 「履く機会は多くはないのですから、もっと丁寧に扱ってください」 「最後に白を履いたのは、いつだったっけ」 低い声で囁く。思い出したくもないと言いたげな声色。にもかかわらず話題に上げたのは、今日という日を望んでいなかったからかもしれない。 「先々王の崩御の時に。あなたはまだ小さかった」 アルタスは答えた。 「覚えていないでしょう。まだ私があなたを片手で抱えていられるほどのころです」 「そして今度は父の葬儀か」 両足にぴったりとはまった純白の靴を見下ろす。それから顔を上げると、つい立ての前に目の覚めるほどの純白の正服がかかっていた。首元を隠し、足先まで覆うほどの長い外套。 「どうして葬儀には白を着るんだろう」 ぽつりと呟く。 「人は眠る時、真っ暗闇に落ちていく。死ぬ時だって、きっとそうだろう。暗く静かなところへ行くというのに、なぜ真逆の白を」 「白は霊魂の色だと、太古の時代から言われてきました。国つ神の一人が死後、白鳥になって飛んでいったという言い伝えもあります」 「白鳥に?」 「そうして翼を持ち、故郷である唯一神の膝元へと帰ったと。彼を見送るために、同胞は白を身にまとったのです」 「だから弔いに白を着るの?」 「ええ、生まれたところへ帰れるように」 ジリアスは嘆息を漏らした。 「父さんは神の御もとへと帰れると思う?」 僅かに滲んでいるのは、哀れみを模したような期待。そうであればいいのにという願いと、そんなはずがないという諦め。 ダザンという国において、神の息吹は冷たい風。大気の音は呪いの声だった。 ジリアスがその赦しを乞うまで、この国は神に呪われ見捨てられ続けていたというのに。 アルタスは黒髪に覆われた額に手を添え、表情を窺おうとそっと撫でる。白い肌は冷たく、朝露のようにしっとりとしていた。 「門を通すかどうかは神の采配。我ら生きているものは、ただ見送ることしかできません。父祖の魂を弔うために、祈りましょう」 「祈りか……」 ジリアスは小さく口の端を持ち上げた。 祈るという行為すら、かつては赦されてはいなかった。 時代は変わった。父祖の罪は洗い流された。ジリアスの血の放棄が成した。 「そうだね。祈ろう。もう聞き届かないということはないのだから」 窓の外に目をやった。もう朝日が昇り、冬の快晴は清潔な眩さを見せている。もう黒く澱んだ雲は頭上を覆わない。 夜は明けた。この北の果ての国は新しい夜明けを迎えたのだ。
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