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十字に敷き詰められた煉瓦にベンチとヒポクラテスの木。中々にお洒落なデザインだが、人気がないのか人の影がない。銭湯で人がいないときはウキウキするものだが、夜の通りだとか廃墟とかだと虚しく思える。これも、同じ感覚に近いものだろう。妙に胸がざわついた。
気晴らしに誰かと話したかったのだが、これでは望み薄だろう。仕方ないのでベンチで本を読むことにする。あわよくば、誰か訪れるかもしれないことを密かに期待しよう。
まだ陽が高い。外にいると嫌でも仕事のことを思い浮かべてしまう。普段なら昼休憩の時間である。近くにあるコンビニで買ったきた弁当を食べて、同僚とくだらない会話をしているだろう。
なんだか、淋しくなってきてふと目線を下げる。だから偶々ベンチの隅々まで見ることが出来てそれに気が付いた。
ベンチの下に人が倒れている。一瞬で血の気がひく。服装からここの患者なのはわかった。突然の発作か、まさか誰かに暴行を加えられたのか。とにかく、状態を確認しなければ。
「すいません。大丈夫ですか」
高瀬舟を急いで漕ぐようにベンチに近寄り呼びかける。反応がなければ、誰かに助けを求めなければならない。こんななりであるから、すぐに助けを呼ぶのは難しい。もし助けが遅くなりこの人に何かあったら、寝覚めが悪い。なので、できれば生きていてほしい。そう淡い不安抱いたが杞憂だった。
僕の呼びかけと同時に彼はぬるりと起き上がると、何事もなかったようにベンチに腰掛けたのだ。
「あの、大丈夫ですか?」
彼は放心している。目の焦点が合っていない。どこかに意識をおいてきたのかしきりにうわごとを呟いている。おかしな人だ。これは関わらなかった方がよかった。
けれど、どうしたことだろうか。僕は懐かしい気分に浸っている。なんだか彼の顔は僕の青春時代をくすぐるのだ。そのまま帰ってもよかったのに、僕はどうしても問いただしたくなった。
「すいません、僕たちどこかで会ったことありませんか?」
口にしてしまった。こうなると、もう後戻りはできない。
「君、私のことを知っているのかね」
彼はずんむりと顔を突き出す。先程とはまるで別人。楽天家特有の大きな声とにやついた顔で僕を嘗め回している。
「いえ、そんな気がしただけで」
しどろもどろと僕はしぼんでいく。圧の強い人は苦手だ。自分のペースが崩れてどう反応してよいか見当つかなくなる。くしゃくしゃの髪をかき回し、彼はベンチを軽快に叩いた。恐らく座れというのだろう。
僕は足に気を付けてちょこんと座る。どこから取り出したのか、彼はきっちりと折り目のついた紙を陽に翳している。その行為に夢中なので沈黙が続く。これは僕から話題を提供した方がいいだろうか。
念願の人と話しができる訳だが、正直全く嬉しくない。いくら暇だといっても、宇宙人の人体実験を受けたくないように、危険がありそうなことに首を突っ込みたくない。触らぬ神に祟りなし。ここは二言三言交わして、そうそうに切り上げるほかない。
「ところで、先刻はどうしてベンチの下に寝転がっていたのですか?」
「仮眠をとっていた。休憩を挟まなければ思考が続かないのでな」
「何か難しいことを考えていたんですか?」
「常に様々なことを考えている。日常の些細な事、なぜ生きねばならないか、死とは何か、みそ汁に入っていた揚げ豆腐がなぜ薄かったとかな」
はあ。僕は空返事しかできなかった。彼の話す言葉は日常用語のはずなのに全く頭に入ってこない。僕に話しかけているというより、自問自答するための道具として僕を使っている感じである。
「だが、やはり今、私の心中を埋めるのはこいつだろう」
そういって、彼は僕に紙片を突き出した。手に取って改めてみてみると、子供の落書きだろうか。言葉を選ぶならば抽象絵画を見様見真似して描いたような絵であった。
「この絵がどうしたのですか?」
彼は深刻に頷くと顎に手を当て彼方を見つめた。
「なんとなく、惹かれるのだ。心がこの絵の本質を求めている。この作者が何を書いたのか。それを考えているのだ。その先に私の失った記憶が埋もれている筈なのだ」
失った記憶。独特な表現だと僕は思った。もっと忘れたとか、思い出せないなどが一般的に使いまわされる言葉だろう。もしや、この人は俗にいう記憶喪失と呼ばれる類の人なのかもしれない。節々から溢れるこの妙な雰囲気も記憶の抹消によるパーツの不足が関係しているのだろうか。
もっと不思議なのは先程の考えるしぐさがやっぱりどこか既視感を覚えたためである。彼と会ったことがある。けれど、思い当たる節がどこにもなかった。「しかし、いくら考えてもわからん。いったいこの作者は何を表現したのだろうか」
彼は再びぶつぶつ言い思考の海に沈んでいった。来たばかりであるが潮時だろう。
「では、僕はこれで失礼しますね。あまり考え過ぎて身体を壊さないようにしてくださいね。それでは」
そそくさと立ち上がろう手をつく。その時頭上に影が差した。
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