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三駅隣は東京という神奈川県下の、ある地域は、新宿、渋谷、池袋といった繁華街特有の喧騒とも無縁で、高校生の片平紗奈にとっては、ひとまず、安心できる環境と言えた。
どんなに「真面目に生きよう」「勉学に励もう」と思った所で、日中、まだ明るい内から
公然とドラッグの売買が行われているという界隈では、誘惑も多く、
例え自らはそれらを
拒絶できたとしても、友人などが、魔の手にかかってしまう恐れもある。
よって、友人とマックでお茶をして、9時をまわったとしても、駅から15分の帰り道、一人で帰れるという環境は本当に有難かった。
お母さんには、前もって、今日はご飯いらないって言ってあるし…
カバンにつけた、友人の美玖とお揃いのダッフィーのマスコットを揺らしながら、紗奈は一人夜道を行く。
「あの、すみません、お急ぎのところ」
不意に背後から声をかけられ、身が固まる。
声の調子から、相手と30㎝も離れていないかと思ったが、男は5m先の場所に佇んでいた。
思わずカバンから携帯を取り出し身構えていると
「申し訳ない、これでは、完全に怪しい者ですよね。
私はあなたのお母さん、恵里佳さんと、昔、ご縁があった者で榊と申します。
人づてに、お母さんがご主人を、あなたにとってはお父様を、亡くされたと聞きましてね。
何とか、連絡をとって、お悔やみを申し上げたいと思ってたんですが、ずるずると時が経って。それでは、宜しく、お伝え下さい」
そう言うと、男は暗がりに紛れて、忽然と姿を消すようにして去っていった。
「あぁー、キモ。とんだ月夜の遭遇だわ」
天真爛漫さが取り柄の紗奈は、気持ちを切り替え、家路を急いだ。
「ただいまー」
「おかえりなさい、そろそろ、期末テストでしょ。お風呂先に入っていいわよ」
「うん、そうする」
片平紗奈の母、恵里佳は高校の同級生だった夫と6年の交際期間を経て結婚した。自らは総合病院の看護師としての職につき、夫は製薬会社勤務という順風満帆なライフスタイルで始まった結婚生活は、多忙ながらも互いに尊敬しあい、夫婦の絆は強まっていく一方だった。
恵里佳の夫は、釣った魚にエサはやらないどころか、記念日には花束や気の利いた贈り物を欠かさないと言う、今どきの夫としてはかなり出来た人物だった。
高給取りの夫と、自分にとっては天職とも言える看護師の仕事、双方を手に入れた恵里佳ではあったが、その幸せも、三年前、突然の不幸に見舞われ崩れ去ってしまう。
エントリーしたヨットレースで夫達のヨットがコースを外れて遭難し、クルー全員が帰らぬ人となってしまったからだ。
夫の葬儀を終えた恵里佳は、それまで、親子三人で住んでいた賃貸のマンションを出、材木商を営む実父の下に身を寄せる。そして、夫亡き後、娘に不自由な思いをさせたくないという一心で、離職していた看護師としての仕事を再開させた。
紗奈は、風呂から上がり、タオルで身体を拭いた後パジャマに着替えると
「今日、起こった事はお母さんには内緒にしておこう。言ったら最後、門限とかに影響してきそうだし」
と考え、自室に入った。
恵里佳は、先日行われた高校の同窓会で、同級生の榊正人が不慮の事故で亡くなっていたことを知り、少なからず動揺した。
榊はクラスこそ違ったが、亡き夫と同じヨット部に在籍していて、主将も務めていた。成績もトップクラスで東大法学部を卒業した後は法曹界のエリート街道をまっしぐらに突き進んでいるというもっぱらの噂だった。
榊の従姉妹で恵里佳とも顔なじみだった、丸岡朋美によれば、榊は趣味の夜釣りに出かけた先、岸壁で、転落死したらしい。
榊には子供こそいなかったが妻がいて、その妻が遺品整理をしていたさなか、榊の日記を発見したのだという。
中を見てみると、高校時代好きで好きでたまらなかった女子生徒への思いが、びっしりと書き連ねてあり、妻は、これを捨てるには忍びないと考え、朋美に託したとの事だった。
日記に書かれている女生徒が、恵里佳だと気づいた朋美は、故人の思いを尊重し、恵里佳に日記を渡したいと考えたらしい。
しかし、その三か月後、今度は恵里佳の夫が海での遭難死を遂げた為、朋美はその日記を恵里佳に渡せず、持っていたとの事だった。
「驚かせて悪いんだけど、従兄弟の供養にもなると思って、あなたに渡すわね」
当日帰って、リビングで榊の日記を紐解くと、そこには恵里佳の様子が事細かく記されていた。
ー 今日から夏服。これはひいき目でも何でもなく、この学年の女子の中で、君の美しさは他の追随を許す事なく際立っている。
昼休み、君が購買に立ち寄る気がして、行ってみたんだけど空振り。
でも帰り、ミスドで仲間といる君を発見して、僕も店に入った。
怪しまれないように、君らに背を向けて、テキスト広げて一時間。
全然、苦にならなかったよ。君の声が、耳に届くだけでどんなに幸せだったか、君には想像すらできないだろうな ー
全く、気づかなかった。
一度、夫から「彼、ヨット部の榊君、皆、すごく頼りにしてるんだ」と紹介され、軽く会釈しただけの存在で、それからは、全く気にも留めていなかった。
だが、東大の法学部にも進むような秀才が、自分に好意を持っていてくれた事実は、少し誇らしかった。
恵里佳は、時々、娘の紗奈が寝静まった頃を見計らって、日記を読み進めていった。
ー 今は、夏季休暇中、よって君の姿を見る事は出来ない。狂おしい。
でも、君の家の近所をうろついたりはしないよ。
それをしたら最後、歯止めがかからなくなりそうで。
正直、今は、ストーカーの気持ちがちょっとわかるかな?
あぶない、あぶない ー
どうやら、榊は、好きという気持ちは強くても、相手に迷惑をかけるのだけは
避けたいと考えていたようだ。
ー 今日は登校日。帰り際、君が片平と仲睦まじく下校して行くのを見る。
噂には聞いてたけど、本当だったんだね。
悲しい、こんなに悲しい思いはこれから先ないだろうって思う位に ー
ー 僕も馬鹿だよね。君の心はあいつの物なのに、まだ、日記を書き続けている。とんだピエロだよ。
それでも、夢にさ、ウエディングドレスを着た君が出て来て…
天にものぼる気持ちだった…
なのにケーキ入刀で横に立った男は、片平だった。あいつ、満面の笑みで、
くそっ ー
前半、ほのぼのとしていた文面は、後半、亡き夫に対する恨みつらみのようなもので埋め尽くされていた。
中には、合宿中、ヨットでペアを組む夫を海に突き落としてやりたい衝動にかられた…という下りもあり、その時点で、日記を開くのをやめた。
榊君が夜釣りで亡くなったのが相模湾。
夫が、遭難死を遂げたヨットレースも相模湾からの出航だった。
夫は、榊の抱き続けた怨念に、見事、からめとられ、海に引きずり込まれたのではないだろうか?
いや、なくはない。
「せめて彼に成仏してもらうよう、墓参をしなければ」
そう考えた恵里佳は、テーブルの片隅に置かれた日記を、人目につかない引き出しの奥に仕舞った。
完
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