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右、左、右。
私が4月から通っている短期大学は田畠の中に建つコンクリート4階建て。中庭に面した廊下は全面ガラス張りで、時々スズメや野鳥があちらの世界に連れて行かれるといった物騒な建物だ。
この日私は微熱があり、玄関横の事務所に早退届を提出した。
ペタンペタン
アヒルみたいな足音が、誰もいない廊下に響く。
赤い扉のスチールロッカーに身を預け、茶色のスリッパを脱いで黒い合皮のローファーに履き替える。白いくるぶし丈の靴下をちょいちょいと引っ張りながら玄関の扉を開けると冷たい風が鼻にツンと来た。
銀杏の三角が石畳の通路に点々と続き、凸凹した木肌を5本数えて校門を出る。
深呼吸。
(あぁ。自由。)
自由を全身で満喫し、ふと見上げた空は春だというのに鈍色で気分は急降下。気を取り直した2本の脚は、右、左、右と木造の寂れた無人駅へと向かった。
(あったか〜い。)
駅舎の待合室には煤けて黒くなった腰丈までの大きなストーブが囲いの中で暖を取り、その上でヤカンがシュンシュンと音を立てていた。
(駅員さん、居ますかぁ?)
ヨレヨレのベージュのカーテンが引かれた窓口を覗き込むが人の気配はなかった。火事になったらどうするんだろう。田舎は本当に不用心すぎる。
(ん?)
背後に何かを感じて振り返ると、そこには角の欠けた大きな鏡。
(えぇ、何この最悪な顔。)
少し面長の頬を指で撫でると肌はカサカサ。眉毛も、色味の無い口元もへの字をしていた。グレーがかったセミロングのボブヘアーは野晒しの駅舎に吹き込む風で巻き上げられ、惨めったらしくグチャグチャになっている。そして黒一色の制服の背中は前屈み。
(あぁ。)
普段は改札を一歩踏み出した黄色い線の内側に立ち、上り列車に乗って自宅へと帰る。今日は何故か引き寄せられるように回れ右をして、連絡通路へと登る階段を踏んだ。
連絡通路から見下ろした2本の線路は延々と続き、何処かで交差して自分を見知らぬ遠い場所に連れて行ってくれる、不意にそう思えた。
右、左、右。
私は下り列車のホームに立ち、黄色い線の内側で下り列車の到着を待った。
(あ、そうだ。あれまだ残ってたかな。)
肩に掛けた黒い鞄の底は雑多な世界。
教科書やペンケース、鏡やリップクリームがごちゃごちゃと邪魔をしてなかなか見つからない。
(あ、あった、あった。)
ささくれた指先が、ツルツルした長四角に触れる。
(二箱もあるじゃん。ラッキー。)
毎月の生理痛が重い私は常に鎮痛剤を持ち歩いている。
新品未開封の鎮痛剤が箱二箱、鞄の奥底に眠っていた。
(これさえあれば、大丈夫。)
ガタンゴトンガタンゴトン
ぷしゅうと音が耳に届き、下り列車の扉が開いた。田畠を駆け抜ける風が私の背中を押す。規則正しく揺れる列車は私を乗せて海岸線を走った。昼下がりの二両編成の各駅停車は乗り降りする人も少なく、車輪の軋む音が心地よく響いている。やがて傾き始めた太陽が、等間隔で並ぶ鉄塔の影を左から右へと流した。
ガタンゴトンガタンゴトン
すっかり日も暮れ到着した駅はコンクリートを長四角に固めただけの殺風景なものだった。剥がれかけた時刻表、季節外れのスイカや朝顔が天井で揺れている。
(えー、高い!)
運賃表を見た私は焦茶の財布を開いて落胆した。数枚の千円札と銀色の硬貨が2枚、茶色い硬貨が6枚。近くに銀行ATMは見当たらない。
(まぁ、いいか。)
駅を出ると緑色の公衆電話ボックスと飲料水の自動販売機が手招きした。この2台の前でしばらく悩んだ私は意を決して自動販売機を選んだ。
ピピピーガタン、チャリンチャリン
数枚の硬貨が手元に戻り、自動販売機から取り出したミネラルウォーターは水を弾いてヒヤリと冷たかった。
外はもう薄暗く右に行こうか左に行こうかと迷っていると、横断歩道の向こう側に飛ぶ場所までの距離が30kmと書かれた道路標識を見つけた。
(歩いて行くには遠すぎる。)
途方に暮れていると良きタイミングで茶色い大型犬を連れたおじさんとすれ違った。飛ぶ場所まで行くにはどうしたら良いのかと尋ねると、おじさんは少しばかり怪訝な顔をしたが、
『そこのローカル線、電車の終着駅まで行くと乗り継ぎのバスがあるから。』
指差した先には錆び付いたトタン貼りの小さな駅舎、電信柱の白い電灯がパチ、パチパチと点いたり消えたりしていた。
(やだ、何か不気味。)
乗車券の自動販売機には小さな虫が飛び交い、ヒィッと小さく声を上げながら980円の切符を買って握りしめた。不気味なホームの青いベンチに座っていると、暗闇から二つの目がガタンゴトンとやって来て私を乗せて終着駅へと向かう。
茶色い大型犬を連れたおじさんが、
『乗り継ぎの最終バスはもう出発していないかもしれないよ。』
それは問題ない。
この2本の脚で歩けば良い事だ。
プシュプシュ
幸運な事に最終バスが私の到着を待っていた。
(神さまありがとう。)
ピー
乗車客は私1人、いくつかの交差点を越え街明かりが遠ざかる。
プシュプシュ
小銭が足りなくて運転手に両替してもらい、賃金支払い箱に980円分の硬貨をジャラジャラと入れた。コトンコトンと箱の中に落ちる私のバイト料。
バスのタラップを降りる時、紺色の帽子を目深に被った運転手さんがこれまた怪訝そうな顔をして私の顔を覗き込んだ。
それもそうだ。
この最果て。
地元の利用者でも無く、見覚えの無い制服。
『ありがとうございましたー。』
軽い挨拶で扉がプシュと閉まった。
彼は時々、私みたいな客をここまで送り届ける仕事をしなければならない。後味が悪いだろうに、と少し気の毒に思った。
(暗っ。)
1本の電信柱の下に飛ぶ場所はあちらと看板が立て掛けてある。
なるほど、この坂を登れば辿り着けるのか。
右、左、右。
躊躇う事なく私の脚は九十九折りの急な坂道の白線を踏みながらおっとっとと登り続けた。
黒い波間が見える。
見えた様な気がした。
木立の隙間、眼下には漁港の灯りと灯台のサーチライトがクルクルと周り、漁村にポツポツと家の明かりが増えて行った。
右、左、右。
ビュウと裾から吹く海風が、膝丈のボックスプリーツのスカートを捲るがなぁに気にする事は無い。此処には私1人。それにしても遠い、息があがる、額に汗が滲みバクバクと胸の鼓動が耳に届く。
生きている。
私は今、生きている。
ふうと深呼吸をして海を見遣ると黒い波間に何本もの白い線が浮かんでは消えた。薄雲の切れ間、真っ黒な紙にぽっかりと開いた白く丸い穴。私の心の中を見透かす寒々とした月。
(い、痛たた。)
踵が痛い。靴擦れかぁ、絆創膏持ってないんだよなぁ。
少し右足を庇いながら坂道を登り続けると、電信柱3本先に目的地の看板を見つけた。
早る心、けれど疲れ切った脚がもう歩けないよと弱音を吐く。
右、左、右。
いやいや、まだ駄目だよと引き止めようとする。
右、左、右。
(ここまで来て、駄目も何も。)
鞄の中のミネラルウォーターがチャプチャプとリズミカルな音を立てている。やっと辿り着いた。あぁ、本当に遠かった。月明かりを頼りに、暗がりを恐る恐るジャリジャリと音を立てながら小石の上に足を進めた。駆け上がる潮の香りが全身を揺さぶる。
(もう疲れた。)
ここら辺で勘弁してあげましょうと2本の脚を曲げ、よいしょと腰を下ろしてみたものの、岩がゴツゴツしてとても長時間座っていられるものではない。早いところ済ませてしまおう。
鎮痛剤の箱を鞄から取り出しかぱっと開ける。取り扱い説明書を引き出してポイと投げ捨てるとそれは白い鳥の様に宙へと舞い上がった。
24粒が2箱。
(足りるかな?)
白い粒をポツポツと胡座をかいたスカートの上に落とすがこれがなかなか面倒で時間が掛かった。ぎゅっとペットボトルの蓋を開けようとしてみたがどうやら寒さで指が悴んで回せない。がぶっ、歯で噛みついて蓋を回そうとするがこれも無理だった。四苦八苦していると不意に背後から声を掛けられた。
「それ、開けましょうか?」
振り向くとそこには最終バスの運転手が肩で息をして額に汗をかきながら真っ赤な顔をしていた。膝に左手を突き、もう片方の手を私に向けて差し出している。
「良かったら、それを飲む前に・・・僕とお茶でも飲みませんか?」
「あ。」
「飲みませんか?」
「は・・・はい。」
蓋の開かないミネラルウォーターのペットボトルが私の手を離れゴツゴツした岩の上をコロンコロンと転がったかと思うとコツンと跳ね上がり、それは断崖絶壁の飛沫を上げる黒い海へと思い切りダイブした。
了
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