第一章

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 理久が愛斗の事を心から愛しているというのは見ていれば分かる。だからこそ、学生の本業である勉強や仕事もせずに優遇された生活を送れるのかと思いきや、生活は寧ろ地獄に近いものだった。  例えば生活に欠かせない食事は死なない程度に三日に一度、カップ麺が用意される。  しょっぱい物があまり好きでは無いので、食べる事には抵抗があったが、生きる為だ。  普段は不味く感じられる食事がとても美味に感じられた。 「白米が食べたい……」  カップ麺を口にする時、必ず言う言葉がこれである。  食べると太ると言われているカップ麺にも関わらず、愛斗は一週間もせずに、目に見えるほどみるみると痩せていった。身体の体力をつけることに必要なエネルギーは白米で補給したかったのだが。  このように食事は満足に取らせてくれない彼だったが、風呂には毎日入らせてくれた。  きっと綺麗好きなのだろう、と思った。  具体的に言えばこのマンションは独り暮らしには似つかわしくないファミリー用の広めの部屋があるのだが、普通は埃が溜まるであろう所に塵一つ落ちていない。  掃除を念入りにしているようだ。 「ただいま、愛斗くん」  玄関のドアが開き、気持ち悪い程に甲高い甘えた声が耳に聴こえた。彼が帰ってくるとまず、口元のガムテープが剥がされる。皮膚が思い切り引っ張られ、ジンジンと口元が痛む。  直接見た訳では無いので分からないが唇は赤く腫れ、皮は捲れているであろう。  何故ガムテープを口元に貼っているかというと、叫び声をあげて近所の人に通報されない為だ。  ガムテープを貼っている間は水分を摂ることができないが、彼が家に帰ってきた後は水分を摂ることができる。  初めのうちは動く事すら出来なかったが、慣れると縛られた足を器用にぴょんぴょんと動かしながら、水道に口を近づけ水を飲む事ができた。  勿論、彼がその場にいないと蛇口をひねる事ができない為、水を飲む事はできない。必死に蛇口に向かって口を近づけるのは少し小っ恥ずかしいとも感じてしまう。  また、何故彼が家を空けている間に逃げないんだ? と思う人も居るかもしれない。しかし、それは残念ながら身体の状態上、"不可能"なのだ。  一つ、手に布を覆いかぶされていて、その上から手首をロープで縛られている。  二つ、肘も腰の上辺りに固定されている。  三つ、足は太ももと足首をロープで固定されている。  以上の事から少し動く事が精一杯で、手の指やひらを動かす事ができない。逃げる時に最初、ドアノブをひねらなくてはいけないという事もあるが。 「ねえ、ねえ。今日ちょっと職場で嫌なことあってさ。イライラしてるんだよねぇ」  ある日、彼がはじめてこう呟いた。  其れが、彼なりの"暴力"の合図だという事を愛斗が理解を出来る筈が無いので、表情はぽかんとしている。  SNSでちらりと見た事があるのだが、職場でのストレスを人にぶつけると、スッキリするというのはもしかしたら本当の事なのかもしれない。 「ふぅ……」  息を大きく吐き、また大きく吸う。今からスポーツでも始めるのかと言いたくなる程。  こう感じたのも束の間、次の瞬間に彼の拳は自身のやせ細った腹に打ち付けられていた。 「う゛っ……!? ぁあ゛……」  苦しそうな声が部屋中に漏れる。抵抗したら殺される、と頭の中で自身に命じられ、どうしても抵抗する事ができなかった。  痛みで何も考える事が出来ないというのに不思議な事につぶらな瞳からはどうしようもなく、涙が通り雨のように流れている。  ──痛い、痛い、痛い……。何で俺はコイツに殴られているんだ??  何故、自分だけがこれほど苦しい想いをしなければならないのか分からずに頭が真っ白になった。今まで優等生をやってきたのだから、暴力を振るわれることさえ初めてだったのだ。  因みにこの時の感情は"無"に近い。苦しさは身体から溢れ出るが、痛いとかやめてとは全く思えられない。  いつか終わると信じて自己肯定感を高めつつ、やった事もない受け身の体制を取る。  しかし、それは思った以上に長く続き、何度も彼の拳が腹に強く刺さった。    二、三十分した頃だろうか。彼は我に帰ったように暴力を辞め、傷だらけの身体を痛いほどぎゅっと抱き締めた。 「愛斗くん、ごめん。やっちゃった。痛かったよね……」  こう言われても返事はしなかった。それよりも身体中が痛くて堪らなかったから。  ふと、身体を見るとそこら中に打撲の跡ができ、酷い所は流血している。彼の頭を撫で、大丈夫だと気遣うように声を掛ければきっと彼は赤ん坊みたく泣き喚き、反抗すると又もや暴力を振られるだろう。黙るのが正解だと暴力を振るわれたのは初めてなのに何となくそう思った。  誘拐される前の生活がつまらないと感じていた愛斗は、元の幸せな生活に戻りたいと感じていた。前の自分がどれだけ恵まれていたか、誘拐される事で痛感したのだ。  毎日、自分を見ているのかも分からない神様に祈りを捧げた。  ──神様、もう我儘は言わないので元の生活に戻して下さい。  と。後々、理久に対して少しばかりは愛情を抱くようになるかもしれないが、この様子を見れば分かるように初めから彼の事を心から慕っていた訳ではなかった。  それどころか彼に対する印象、好感度は今まで出逢った誰よりも良くなかったのである。
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