第一章 君は僕の幸せ 第1話 別れよう

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第一章 君は僕の幸せ 第1話 別れよう

 吉川さんには3年付き合った彼がいる。2年半前から、吉川さんの借りている1軒屋で、同棲もしている。  その彼の名は、熊さんだ。  その熊さんが、土曜日の朝に言った。  「俺たちさぁ、別れようよ」  吉川さんが平然と答えた。  「良いよ」  あっさりと吉川さんが同意したので、驚いたのは熊さんの方だった。 「え? 良いの? そんなあっさりと別れてくれるの?」  ちょっと熊さんを紹介しておくと。    熊さんは、本業では造園・園芸の仕事をしているけど、趣味で写真家もしている。  会社で手掛けた庭を写真で撮って、会社のサイトにアップしているうちに、いつの間にか写真に目覚めたらしい。  数年くらいかけて、庭や木々の写真を撮っては、仲間と共同で個展などしたりしている。  コンクールにも、出しているらしい。  小さな賞は貰っているらしい。  そうなんだけどぉ、吉川さんは、熊さんのアーティスト面については、興味がなかった。    さて、あっさり別れを受け入れた吉川さんは、今それどころじゃない。ショッピングモールで仕事をしている吉川さんは、土曜も出勤だ。  ダイニングテーブルに化粧道具を置いて、ブラジャーとパンツだけの姿で、椅子に体育座りして、化粧をしていた。    吉川さんは、アイラインを引きながら言う。 「だって、熊さんが私と、別れたいって言っているのに、引き止めてもさぁ。それでェ、どうする? これからさぁ」  熊さんは吉川さんに、何について聞かれているか、分からなかった。 「これからって? 何の話?」  吉川さんは、メイクを止めて熊さんを見た。 「同居解消するじゃない? いつ熊さんは、この家を出ていくのよ?」  すると熊さんは驚いたように言う。 「出て行くって? 何で俺が、この家を出ていくの?」  吉川さんは、椅子から立ち上がって、座っていた隣に置いてあった服を着始めた。  吉川さんは、ブラウスのボタンをはめながら言う。 「だってこの家、私の叔父の家を格安で借りて住んでいる訳でさぁ。熊さんは私の間借人じゃない? 熊さんは私と別れたら、当然出ていく訳よね?」  熊さんがキッパリと答えた。 「俺は、この家を出て行かないよ」 「え? 出て行かないの?」 「出て行かないよ」  吉川さんには、熊さんが家を出ていかない理由がわからない。 「なんで?」 「だってこの家は気に入っているし。別に俺は吉川が嫌いになったわけじゃない。吉川とエッチはもう2年はしてないし、今後もしないと思う。俺は吉川にエッチをしない安全な男だ。つまりそれは、付き合っていた時も、別れてからも、何も関係が変わらないだろ? だからいいじゃない? このまま同居続けてもさぁ」    確かにこの2年の間、吉川さんと熊さんは、同居している仲良しさん同士くらいの関係だった。  しかし、そうは言っても、吉川さんは思う。 「意味が分かんない。それにどうするの? 新しい彼女はぁ。彼の女が怒るでしょう? 自分の彼が元カノと同棲をしていたらさぁ」    熊さんの表情が曇った。 「吉川は、俺に彼女がいるの、知っていたの?」 「知っているよ。華ちゃんでしょう?」 「マジかよぉ。名前まで知っていたの」 「熊さんは酔っ払うと、私のことを、華ちゃんて呼ぶんだけど。自覚なかったの?」  熊さんは困った様な顔で言う。 「自覚なかったわ。ごめん」    吉川さんが笑う。  「いいよ。別に。私たちとうに終わっていたんだし」  熊さんが聞く。  「そう思っていたの?」  「違うの?」  熊さんは答えない。    この時、吉川さんには、熊さんの答えを聞くべきだったのかもしれない。  でも吉川さんには、熊さんの答えを待つ暇がなかった。  吉川さんが、置き時計に目をやる。  「行かなきゃ。じゃ、熊さん。この話の続きはまた今度ね」  そして吉川さんは、リビングを後にした。
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