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本音 1
婚活アプリの、松本さんのプロフィールへのダメ出しもほぼ終わって、吉川さんが言う。
「じゃ、私はそろそろ……。帰るわ」
「食品は買わなくて良いんですか?」
「まぁ、平気かなぁ。どうせ一人だし」
「一人暮らしなんですか?」
「どうかな?」
「どうかなって? どう言うことですか?」
吉川さんが言葉を濁した。
元カレと同居している件を、実質今日知り合った人間に、流石に言いにくかったのだ。
「どう言うって……」
松本さんは、聞いてはいけないなんだと察知して、聞くのをやめた。
「言いたくないなら良いです。でも帰るなら、一緒に帰りませんか?」
「方向違うんじゃないの?」
松本さんがもじもじしながら言う。
「たぶん……、同じ方角です」
「何でそう思うの?」
「時々、僕のアパートの近くで、吉川さんを見かけるからですよ」
吉川さんは、そのセリフに、背中が寒くなった。
「嘘ぉ……」
「本当ですよ。川沿いに下って行って、コンビニのところを右に曲がって、それから……」
「もう良いよ。分かった。ご近所さんだったんだ」
「たぶん」
それで吉川さんと松本さんは、一緒に喫茶店を出て、川沿いを歩いていく。
川沿いを歩き。
コンビニのところを曲がって。
それから、小学校が見えるまで直進して。
小学校の手前で、曲がる。
そこは300メータくらいの長さの登坂で。
坂を登りきると左に見える、小さな緑色の外壁の家が、吉川さんの家だ。
吉川さんが言う。
「アレが私の家だけど」
松本さんが頷く。
「知っています」
吉川さんが怯える。
「松本さんて、さっきから怖いこと言うね」
「怖いですか?」
「知らないうちに、店のお客さんに、私の家の場所を知られていたのは、超怖いよ」
平然と松本さんが言う。
「勤める店に自宅が近いと、そう言うこともあるでしょう」
吉川さんは、幾分げんなりしている。
「うーん。なんか今回は、考えさせられたわ。お客様って、案外店員をよく見ているんだなぁ。気をつけよう」
「大丈夫ですよ」
慰めにならない、慰めを松本さんが言う。
坂を登りきって、数分で吉川さんの家の、玄関の前に着く。
吉川さんが言う。
「それじゃ、またお店にタバコを買いに来て」
松本さんが言う。
「なんかぁ、冷たい言い方ですよね? まだ色々相談したいんです。見捨てないでください」
その時、吉川さんの家の玄関から、熊さんが出てきた。
吉川さんが、熊さん見るなり、聞いた。
「出掛けるの?」
熊さんが、松本さんを見ながら言う。
「おお、華ちゃんと会うんだ。で、この方どなたさん?」
「ああ、この方は松本さん。実質今日知り合って」
熊さんが松本さんに言う。
「へぇ。よろしく。俺は熊谷って言うんです」
「あっ、こちらこそ」
熊さんが吉川さんを見た。
「ええ。ああ、そうだ。俺のこと待たなくて良いから。先に寝て。夕飯もいらないし」
吉川さんの言い方は冷たい。
「そもそも別れて以来、夕飯は完全に別でしょう? それに熊さんなんか待ってないから」
熊さんが、途方に暮れたように言う。
「冷たい言い方だなぁ」
「私に冷たくされても、華ちゃんが優しいんでしょう? それでいいじゃん?」
熊さんの顔は険しくなる。
「ああ、優しいよ。華ちゃんはただただ可愛いからな。俺は今幸せだよ」
「悪かったわね! 私が可愛くなくて。私とでは、幸せに成れなかった訳だし。私では、熊さんは、辛かったんだろうから」
不穏なやり取りに、松本さんがそっと去ろうとした。
「あ、僕はこれで……」
去ろうとする、松本さんの腕を、吉川さんが咄嗟に掴んだ。
松本さんは、吉川さんに腕を掴まれて、仕方なくその場にとどまる。
その様子を見ながら、熊さんが言う。
「まぁなぁ、おまえは美人だけど、愛嬌ないし、毒舌で怖いからなぁ。女は可愛げのある方が良いよ。癒されてさ」
「そうなんだ。そりゃ、良かったジャン。せいぜい癒やされたら良いよ」
「ああ、そうするよ。じゃぁな。松本さんも、そんな女に捕まると、不幸になるから気をつけろよ」
熊さんは、ドシドシ音を立てながら、去って行った。
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