それから

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それから

 その後、少女は改札に向かって全力で走った。すると、ちょうど塾を出てきた友達に声をかけられた。 「あれ美亜(みあ)じゃない? みーあー? ちょっとー!」  返事をしている余裕はなかった。  少年の演奏の余韻が残っているうちに、早く家に帰ってピアノを弾きたかった。彼女は電車に飛び乗り、扉の横に立っていつものように窓の景色に目を向けたけれど、頭の中は彼のことでいっぱいだった。  これまでいくつかの大規模なジュニアコンクールに出たけれど、コンテスタントたちの演奏に特別な感情など起こらなかった。でも今日は意地でも彼のように弾きたいと思う気持ちが胸にわきあがってきた。このとき初めて、少女は才能に嫉妬したのだった。そして、あの演奏を頭の中からできるだけ早く追い出さなければ、いつまでも脳裏にこびりついて、こそげ取っても取れなくなってしまう気がして恐ろしくなった。  何だろう、この落ち着かない気持ちは。ケヴィンって言ってたよね。顔は日本人みたいだったけど、外国人なのかな。v(ヴィ)の発音が完璧だったし。  彼女は電車の窓に映った自分の前髪を見て、指で丁寧に直した。  ピアノを続けていれば、きっとまた会える。会いたい。  少年は、駅に迎えに来た祖母の車に乗った。 「遅かったわねえ、ケヴィン。無事に来られてよかったわ。暑いでしょう? 日本(こっち)は。疲れた?」  今か今かと孫の到着を待ちわびていた祖母は、彼を質問攻めにした。彼は祖母が持ってきてくれた冷たいコーラを一気に飲み干してから答えた。 「ありがとう。ねえグランマ?」 「なあに?」 「ぼくはずっとここにいるよ。これからなかよくしようね」  もう、この子ったら。祖母の声がほんの少し上ずった。彼は微笑みながら窓の夜景に目を向けた。  あの女の子のピアノ、よかったな。これからぼくは日本のコンテストに出場する。あの子にもきっとどこかで会えるはずだ。会ったら名前を聞かなくちゃ。  街灯の光が目に飛び込んできて、彼は目を閉じた。そのまま助手席のシートに身体を沈めて、今日の出会いに思いを馳せた。 *The end*
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