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少年と空
暑い。なんだこの息苦しさは。
電車を降りた少年の身体に熱風が絡みつく。プラットフォームを数歩歩くと尋常ではない湿気で、全身から噴き出した汗が彼を不快な気分にさせる。
でも同時に彼は、そんなことは一瞬で消え去ってしまうくらい彼の胸をときめかせるものが、すぐそこにあることを知っていた。
エスカレーターが彼を乗せてせり上がっていく。すると目の高さに真っ白な床が現れた。早く、早く。すると正面と左右の壁三面がガラス張りの、高くて広い空間が現れた。ガラスの奥には青くて広い海と、それよりもっと青くて広い空が広がっている。彼は目を見開いたかと思うと眩しくて目を細めた。そしてそんな自分がおかしくてひとり微笑んだ。
ここが駅の広場とは信じられないくらい贅沢な作りだ。この駅は地元出身の有名な建築家が設計したらしい。透明なガラスは様々な濃淡を含んだ青に変質して空に溶け込んでいた。少年にとって、その景色は特別だった。
コンニチハ、ぼくのふるさと。
彼は自分に言い聞かせるように、小さく日本語でつぶやいた。
アメリカで生まれ育った少年は、一人で飛行機に乗ってやってきた。両親の母国である日本。祖母に会いに数回家族で訪れたことはあったが、少年には異国の地も同然だった。それでもこの駅に降り立つと、景色がいつも彼に感動を与えてくれた。彼の家があるアメリカ中西部のカンザスには海がない。カンザスの片田舎の雰囲気を彼は気に入っていたが、目の前に広がる海もまた、彼にとって誇りだった。
少し疲れた。
ひとり旅の緊張が解け、心地よい疲れを感じた彼は、ガラスの前に点々と並んだシートの一つに腰を下ろした。
少年はひとしきり海を眺めてから、駅を行き交う人々に目を向けた。平日の昼間のせいかビジネスマンは少ない。そのとき、女子たちのグループが陽気にはしゃぎながら彼に向かって歩いてきた。一瞬どきっとしたが、彼女たちが自分の背後の海を見ていることに気づいて恥ずかしくなった。彼女たちは少年には目もくれず、隣のシートに座るとにぎやかに話を続けた。
何歳くらいなんだろう、ぼくと同じくらいかな。
日本人は小柄で童顔なのでよくわからないが、同年代ならハイスクールの生徒だろうか。日本では確か中学生くらいか。そういう彼も背は低く、痩せているのがコンプレックスだった。同性同士の気の置けないトークはアメリカも日本も変わらないように思うが、女子の世界は彼にとって宇宙と同じくらい遠い世界だった。彼は居心地の悪さを感じた。
喉が渇いた。なにか飲みたい。
彼は海に背を向け、広場をきょろきょろ見渡して目を留めた。広場の隅の方に、グランドピアノがちょこんと置かれていた。彼の気持ちは急に湧き立った。
ああ、どうしてこの場所はぼくをこんなにわくわくさせてくれるんだろう。
彼は無意識にピアノに近づこうとして、いったん座り直した。もちろんここは大好きだ、でもきっと自分はピアノさえあれば世界中どこにでも行けるのだ。
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