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少年とピアノ
少年は海を見ていたが、そのうち両隣の女子たちのことが気になり始めた。日本の女の子たちはかわいらしい。耳をすませて話を聞こうとしたが、彼には噂話を聞き取るほどのリスニング力はなかった。
日系二世の父親は彼に英語さえ理解できればいいと言ったが、母親は、日本にいる彼女の母親、つまり彼の祖母と彼がコミュニケーションをとれるように彼に日本語を教えた。彼と祖母の距離は遠く離れていて、お互いが顔を合わせたことは両手の指の数より少なかったが、祖母は言葉の壁などまったく気にせず彼に話しかけたし、彼は祖母の話が全部わからなくても、祖母の大きな愛を感じ取ることができた。
彼と祖母の共通の話題はピアノだった。二人はピアノについて熱心に語り合った。自宅でピアノ教室をしていた祖母は、彼にとって先生であり、仲間であり、純粋なピアノファン同士だった。
祖母の屋敷には古いグランドピアノがあった。彼は祖母を訪れると必ずピアノのレッスンが行われている部屋に閉じこもった。そしてひとつひとつ大切に鍵盤に触れると、何ともいえない高揚感が彼を包んだ。その歴史あるピアノの音は重厚で穏やかでいて時に華やかでもあり、まるで彼の祖母のようだった。もしかしたらそれが彼をピアノに向かわせる原体験なのかもしれない。彼はそのピアノが好きで、祖母のことはもっと好きだった。
そんな祖母がピアノ教室を辞めたという連絡がアメリカに届いた。祖母は国際電話の向こうで「もう歳かな」と話した。少年はいつ会っても若々しい祖母の立ち居振る舞いを思い出して、その言葉を否定した。それに、祖母のピアノへの情熱が消えてしまったなんて信じられなかったし、信じたくなかった。
そうだ、ぼくが祖母のところへ行こう。ラフマニノフやフジコ・ヘミングやいろんなことを、あんなにたくさん語り合ったじゃないか。ぼくが行けば、グランマも変わるかもしれない。
そして少年はここへやってきたのだった。本当は、それだけが理由ではなかったのだけれど。
広場を通り過ぎようとしていた若者がピアノに近づき、鍵盤を適当に叩き始めた。少年が顔をしかめてピアノに背を向けると、背後から耳障りな音と下品な笑い声が聞こえてきた。
あれはストリートピアノだ、そんなピアノを大切に思う人間はいない。ピアノなんて生きるためにまったく必要がない人々のために置かれているピアノだ。
広場に置かれたピアノは健気に自分の役割を果たしていた。
少年はため息をついて、一人で座っている少女の横顔を垣間見た。少女が難しい顔をして唇を尖らせているのがかわいらしく思えた。彼女もこの騒音じみた音がいやなのかもしれない。
少年がピアノの方を向くと、若者たちはすぐにいたずらに飽きてふざけながら去っていくところだった。隣で盛り上がっていた女子のグループも、ぞろぞろと改札口へ向かっていった。
窓際に並んだシートに少年と少女がぽつん、ぽつん、と二人、近くもなく遠くもない距離をおいて座っていた。少女は腰を屈めて自分のひざの上に両肘をたて、頬杖をつきながら、熱心に眼下の波を見つめている。
この子も海が好きなのかな。
青かった空は徐々に赤みを帯びて、ロマンティックな空間を創り出していた。
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