少女とピアノ

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少女とピアノ

 少女はまぶたを伏せて、眼下の海をながめながら何度目かわからないため息をついた。  彼女は高校受験に際して、普通科進学か音楽科進学かを選ばなければならなかった。彼女にとって、音楽科に進むことはピアニストとして生きる覚悟をすることと同じだったけれど、彼女には自分がピアニストになるなんて大それた夢のような気がしてならなかった。  幼い頃から、遊びや勉強やすべてのことを犠牲にしてピアノの練習をする子たちを見てきた。でも、それでもピアニストとして大成できる保証はない。彼女はただピアノに触れたときの鍵盤の感触を楽しんだり、鍵盤を一つ一つ弾いて残響を聴いたり、リストやフォーレの曲を聴きながら、当時の西欧の状況や作家の心情に思いをはせることが好きなだけだった。  彼女の周りの大人は「その欲のなさは将来不利になる」と心配し、彼女に忠告したが、彼女はそんな大人たちに反発した。ジュニアコンクールに出場する子たちの演奏は確かに上手だ。でも技術に走り、かえって子どもっぽさを露呈してしまっていると思った。そんな演奏を聴くと、彼女は自分のことのように恥ずかしく感じてしまうのだった。一生懸命がんばっている彼らを馬鹿にするつもりなどない。自分も同じだからだ。彼女の心には誰の演奏も響かなかった。  私の演奏も同じだ。ちょっとだけ、周りの子どもたちよりほんの少しうまく弾けるだけ。  自分に野心がないこともよくわかっていた。そんなところも、自分がピアニストになれる可能性はないと思える点だった。そもそも才能のある人の前には自然と道が拓けて、迷うことなく足を踏み出せるのかもしれないけれど。  じゃあ、私は何にならなれる?   少女は自分に問いかけてみたものの、さっぱりわからなかった。  だったら今から勉強して、将来何者かになれる可能性を残しておかなければならないんじゃないか。  そんなふうに少女が考えたのは、幼いころ大きくなったらピアニストになる、と思っていたように、大人になることは何者かに成ることだという考えが少女に刷り込まれていたからかもしれなかった。  彼女は中三になると、ピアノを休んで受験勉強に専念することにした。両親、特に熱心だった母親は残念がったけれど、よくここまでがんばって続けられたね、と彼女を(ねぎら)った。  広場のピアノががちゃがちゃ音を鳴らし始めると、物思いに耽っていた彼女は現実に引き戻された。ガラスの壁の向こうでは日が地平線に近づき、空が燃えるように赤くなっている。  うるさいな、ピアノがかわいそう……でも待って? ピアノは打楽器なんだから、感情のままに鍵盤を叩いたっていいんじゃないかな。むしろ、上手に弾こうというほうがピアノの在り方からはなれているんじゃない? ましてコンクールで入賞するために練習するとか、本来のピアノとはまったく関係ないことなんじゃないの? そうよ、もしまたピアノが弾きたくなったら、ピアノの先生にお願いしてレッスンさせてもらえばいい。そしてどこでもいいから音大に入って、自分の楽しみのために弾けばいい。  情熱的な空の下で、風が止まり、波が消えた。海が凪いでいる。  でも少女は知っていた。呼吸を止めたように静まりかえったガラスの向こうの海が、時に無惨に荒れ狂う姿を。   少女は周りにあまり人がいないのを確認して広場のピアノに近づき、椅子に座った。  これが最後。私の最後のコンサート。私にはこんな場所がふさわしい。ピアノを弾くのはこれで最後にして、ピアノのことはすっぱり忘れよう。  少女は左手を鍵盤の上にのせると、笑みを浮かべた。そして一音、一音、確かめながら鍵盤をなぞり始めた。久しぶりに鍵盤に触れ、指が動かなかったけれど、そんなことはどうでもよかった。右手が加わり、静かに曲がスタートした。  波が引力に穏やかに導かれては解き放たれるように。静寂が一瞬訪れたあと、暑さを避けていた人々がわらわらと浜辺や街に繰り出し、夜が更けるとまた喧騒が訪れる。夏の終わりの寂寞を美しさとともに奏でる。  広場のピアノが奏でる音は微妙にくるっていた。たいして調律もされていないのだろう。彼女はそんなピアノを慰めるように弾いた。それは彼女が以前コンクールに出たときに弾いた「シシリエンヌ」だった。
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