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少年と希望
少女が弾き終わると、立ち止まって見ていた数人の観客からパラパラと拍手が起こった。少女は頭を何度も下げながら、足元に置いたリュックサックを持ってピアノから離れた。
これでもう、受験勉強に専念しよう。
そう思いながら、少女は改札口に向かって歩き始めた。
そのときだった。ピアノの音が背後から響いた。
どうして?
彼女は眉をしかめた。その曲はたったいま自分が弾いた「シシリエンヌ」だったからだ。あてつけなのだろうか。なんだか感じが悪い。
しかし、すぐに彼女は全身が熱くなった。
凄い……なんて演奏なんだろう。
大勢の人が広場を行き交い、騒々しくおしゃべりしている。そしてピアノはろくに調律もされていないというのに、音が気持ちよく広場に響いている。一人、また一人、人々が足を止めて彼の演奏に耳を傾け始めた。
「シシリエンヌ」はメロディアスでついセンチメンタルになりがちだが、この少年は少女とは違い、少しテンポアップして弾いている。なにより楽しそうだ。何かから解放されたような自由な演奏。その音は、希望だった。
彼女はこんなに魅力的な「シシリエンヌ」を聴いたことはなかった。今まで出場したどんなジュニアコンクールにも、こんなふうにこの曲を弾いた人はいなかった。彼女は彼の斜め後ろに立ち、食い入るように彼の指先を見つめた。暗譜で迷いなく動く指先。かなり弾き込んでいるに違いない。たくさんの人々が遠巻きにピアノを囲み、スマホで撮影を始めた。
彼の指が鍵盤から離れると、集まった観衆から拍手がわき起こった。さっきまで全身を熱くして演奏に聴き入っていた彼女は、急に寒気がして両手で自分自身を抱きすくめた。
彼が立ち上がると、年配の女性数人が「お上手ね」と彼を囲んだ。彼は照れたように頭をかきながら、周りをきょろきょろ見た。
彼女は思い切って彼に声をかけた。
「あの!」
彼女は自分の行動に内心驚いたけれど、そのまま帰ることなど到底できなかった。彼は青い顔をした彼女を見てとまどい、首を傾げた。
「あの! ええと、名前! 名前は?」
「……Kevin」
「え?」
目の前の少年はどこから見ても日本人の顔をしていた。からかわれたのだろうか。いや違う、彼女は一瞬で理解した。彼の瞳が晴れ晴れと澄んでいたからだ。彼女が思わず微笑むと、彼はまっすぐ彼女を見てうなずいた。
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