食べられたくない山あざらしは人間に化けることにした

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山あざらしの集落にもコーヒーは存在するが、人間のものより薄味で、彼はコーヒーのあまりに高い濃度に眩暈を起こす。ヒノキのテーブルの上で悶絶し、転がっていた。  ヒノキの肌触りは心地よいくらいだったが、体が痛むだろうと思ったのか、ミコトは手持ちの小さな鞄からやわらかなぬいぐるみマスコットを取り出す。鮮やかな桃色のジンベイザメに、白い花柄の刺繍がされている。山あざらしがありがたくその上に突っ伏すと、まるで抱き枕みたいなサイズ感でジャストフィットしていた。 「その子はね、『まくらちゃん』って名前なの。あたしの宝物で、今まではいちばんのお友達だった。パパもママもモカ()もいなくなって、元いた家から引っ越しても、この子だけはあたしについてきてくれたから。このお店でのんび~りする時だっていつも一緒に来て、コーヒーカップの横に置いて眺めてた。喋ってくれなくても不満に思ったことなかったんだけどね。今はやっぱり、山あざらしみたいにちゃーんと応えてくれる相棒がいるの、いいなって思うよ」  ジンベイザメの「まくらちゃん」は、家族四人で出かけたショッピングセンターで気まぐれに回したカプセルトイの筐体から出てきた。有体に言えば安物、だがミコトにとっては大事な宝物で、亡くなった家族とのかけがえのない思い出の象徴だった。 「大人になったらどこかの水族館で、ジンベちゃん(ジンベイザメ)を見てみたいな~」 「オイラは見たことねーけど、海に住んでる山あざらしは見たことあるって話してたな。オイラ達のちっちゃな体からしたらあいつらの体は島みたいにでっかくて、その上に住んだら国が作れそうなくらいだったって」 「海にいるのに山あざらしっていうの? 別の呼び方しなくていいの?」 「言われてみれば、確かに謎かも……?」 「呼び方っていえば、あなたの名前、聞くの忘れてたよね」  ミコトと暮らして何日過ぎたっけ? 日付を数える感覚のない暮らしをしてきた山あざらしにとっては漠然としていたけど、少なくとも「今更」と言うべき時間が経過しているのは間違いないだろう。 「オイラの名前は『サン』っていうんだぜ」 「いつか、あたしとサンも一緒に、ジンベちゃん見に行けたらいいね」 「そうだな」 「約束しとく? 指切りげんまん」  ミコトが小指を差し出しても、サンの小さな手の指でそこに対等に絡めさせるのは不可能である。仕方なく小指に抱きつき、しがみつく。ミコトがご機嫌に「はりせんぼん~」を口ずさみながら、指をぶんぶんと振り、サンは体ごと上下に揺さぶられる。これがふたりにとっての指切りげんまんとなった。
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