10人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
彼は今、単身ヨーロッパに来ている。推しのアイドルの海外公演を見届けるためだ。
彼女は今回に限らず日々世界中を飛び回り活動しているのだが、日本以外での公演を観るのは今日が初めてだ。期待と、異国の地に一人という緊張感で武者震いがする。
「ハックション!」
と思ったが、どうやら身体が冷えていただけらしい。夜が近づいてきたこともあるだろうが、やはり日本と比べヨーロッパの気温の方がずいぶんと低く感じる。
「お? もしかしてアンタも日本から来たのか?」
突然馴染みの言語で声をかけられた。振り返ると、ところどころ素肌の出ている彼とは対照的な、全身ファーで身を包んだ暖かそうな格好の男が友好的な笑みを浮かべていた。
「そうですけど、なぜ分かったんですか?」
「クシャミをする時に『ハクション』と言うのは日本だけだからな。文化の違いってやつだ」
「なるほど。ところで、アナタももしかして?」
尋ねると、「あぁ。俺も日本から彼女の公演を観に来たんだ」とファーの男は言う。こんな場所で同胞と会えるとは思ってなかったので、心強さに顔が綻ぶ。
「こんなところまで追っかけて来るなんて、熱心なファンなのですね」
「アンタこそな。彼女のどこがそんなに気に入ったんだ?」
ファーの男からの質問に彼は少し気恥ずかしそうに答える。
「まぁ一言で言えば親近感というか……僕こう見えて、たまに彼女に似てるって言われるんですよ」
「似てる? どういう点で?」
「見た目です」
「へぇ……な、なるほど」
ファーの男は解せないといった様子でわずかに顔をしかめたが、彼は気付かずにニコニコと笑っている。
そして「そちらは、彼女のどんなところがお好きで?」と尋ね返す。
「俺か? 俺はどこが好きとかねぇよ。ただ、アイツを見てるだけで理性なんかぶっ飛んじまうんだ」
「理性が飛ぶ?」
「あぁ。身体が妙に熱くなって、自分のモンじゃねぇみたいに力が湧いてよ。その感覚が好きで、ずっと追いかけてるのかもしんねぇな」
「へぇ。それは素敵ですね」
まぁな、と嬉しそうに鼻を啜るファーの男。
その時後ろから「よく知ってる言葉が聞こえたんだけど、もしかして二人も日本から?」と呼びかけられた。
見ると、やや赤みがかった目の色のイケメンが立っている。
「おいおい、まさかアンタもか?」
「うん。日本から、彼女の公演を観に」
「マジかよ! こんなことあるんだな!」
「すごい! でもそれだけ、彼女が多くのファンに愛されてるってことですね!」
嬉々として彼が言うが、赤目の男は否定する。
「いや、俺はファンというより、恋人みたいなものかな」
「恋人!? 彼女の!? 本当ですかそれは!」
「彼氏が居るなんて聞いたことねぇぞ!」
「まぁ正式に告ったり告られたりしたわけじゃないんだけど」
「何だそれ。ストーカーか?」
彼女の敵と見るや険のある声を出すファーの男。赤目の男はそれに落ち着いた様子で応える。
「違うよ。だけど、彼女と俺が両想いなのは本当」
「ハァ? なんでそんなことが分かんだよ」
「だって彼女、身体に俺の姿のタトゥー入れてるからね」
「マジ!?」
「あのタトゥーってアナタだったんですか!?
彼とファーの男は同時に驚きの声を上げた。そして改めて赤目の男の姿をマジマジと観察する。
確かに、彼女の身体にあるタトゥーと同じに見えなくもない……か?
まぁ、とにかく。
「疑ったりしてすみません。でもストーカーじゃなくて安心しました」
「あぁ、俺も悪かったよ」
「いいよ。でも、意外だな」
「何がだ?」
「恋人なんて言ったら、正直ストーカー以上に恨まれるかもって」
「何言ってんだ。推しに恋人が居たぐらいで騒ぐほど、やわなファンじゃねぇよ」
「そうですよ。恋人だろうがファンだろうが、彼女を好きで応援する気持ちは同じです」
「……ありがとう」
「せっかくこうして会えたんですから、今夜は一緒に楽しみましょう!」
「そうだね。素敵な出会いに乾杯」
「おしゃべりはここまでだ。そろそろ始まるぞ」
ファーの男の言う通り、太陽が今にも地平線の向こうに隠れようとしている。
いよいよ開演だ。空というステージが暗くなり、星という照明がキラキラと輝き出す。すると、世界をまたにかける彼らの月が姿を現した。
「わー! 今日も可愛いよー!」
スッポンである彼は、彼女と同じまんまるの甲羅をフリフリし、歓声を上げた。
「うぉー漲ってきたー! ワォーン!」
ファーの男は、ムクムクと肥大化した肉体を二足で支えオオカミ男となり、彼女に向かって高らかに吠えた。
そして赤目の男は。
「おい! 何で知らない奴のタトゥー入れてるんだよ! 誰だその男は!」
長い耳を夜空に向けてまっすぐに立て、悔しそうにぴょんぴょん跳ねていましたとさ。
※月の模様は日本では「餅をつくウサギ」ですが、ヨーロッパ、特に南の方では「カニ」だそうです。文化の違いですね。
最初のコメントを投稿しよう!