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「金花!」  支えた体には力が入っていなかった。慌てながらもできる限りゆっくり動かし、自分に寄り掛かるように地面に座らせる。 「ま、まさか……!」  動揺したような光榮(こうえい)殿の声にハッと顔を上げた。先ほどまでゴウゴウと燃えていた火柱の炎が弱くなっている。うっすらとではあるが、火柱の中の鬼はすっくと立ったままのように見えた。  光榮(こうえい)殿の声にざわめいたのは陰陽寮の者たちだけではなかった。武士(もののふ)たちも動きを止め、屋敷から連れてきた顔馴染みたちも一様に動揺しているように見える。 「なるほど、こりゃ相当厄介な鬼だな」 「師匠、」  側に立った師匠を見上げると、いつになく厳しい顔をしていた。 「この鬼は、人だけでなく、鬼も食らって、きたのでしょうね。鬼を食らえば、力が増すと、昔から言われて、いますから」 「金花、しゃべるな。傷に障る」 「ふふっ、そんなに心配した、顔をして、……っ」  いつもなら「かわいい方」と続くのだろうが、それを口にする前に言葉が途切れぐぅっと眉を寄せている。 「……鬼を食らう、鬼は、厄介、なのです」 「もうしゃべるな」 「退魔の太刀で、どこまで、効果が、あるか……」 「金花、もういいから」  言葉を続けようとするのを遮り、懐に仕舞ってあった手拭いでグッと肩の傷口を抑えた。しかし手拭いはすぐに赤く染まり、血が止まる気配はまったくない。 「おまえさん、鬼には詳しいようだなァ」 「そう、ですね。お師匠、よりは、詳しいかと」  勢いのなくなった火柱を睨む師匠を仰ぎ見れば、ますます険しい眼差しを向けている。 「ということは、この鬼は火柱では殺せないってことか」 「おそらく、は」 「ふぅむ。そりゃあ厄介極まりない」  口調こそいつもと変わりないが、髭切を持つ右手にぐぅと力がこもったのがわかった。 「だからこそ、もしやと、思い、羽根を拝借、したのですが」 「羽根? 羽根とは何のことだ?」 「金花、もうしゃべるなと言ってるだろう」  師匠は羽根のことを知らない。訊ねられても「鬼の王の使いである烏天狗の羽根だ」と説明できるはずもなく、そんな羽根を持っていた金花は何者かと問い詰められても困る。  しかし金花の言葉が気になったのは俺も同じだった。 「うまくすれば、と思ったのですが、まだ帰って、きていない、のかも……っ」 「これ以上しゃべるな。血が止まらないんだぞ」  羽根のことは気になったが、これ以上話せばますます体力が奪われてしまう。もうしゃべるなと注意し、己の着物の袖を破いて傷口をググッと押さえた。しかし一向に血が止まる気配はなく、真っ白な顔がますます真っ白になっていく。  そのうち金花の顔をゆらゆらと照らしていた橙の灯りが陰ってきたことに気がついた。ハッと前方を見ると、ほとんど消えた火柱の跡にあの鬼が立っている。 「……!」  誰もが息を呑んだ。それもそのはずで、着物の端々は少し焦げているものの大方は変わることなく、いままで火柱の中にいたとは思えない様子の鬼がそこにいたのだ。  その様子にもっとも狼狽したのは陰陽寮の者たちだった。光榮(こうえい)殿が何か話してはいるものの、言葉として聞き取ることはできない。 「やれやれ、(いかづち)のあとは炎か。お気に入りの着物だったというのに、端が少し焦げてしまったではないか。いや、人にしてはおもしろい見世物(みせもの)だったと褒めてやるべきか」  ぱんぱんと着物をはたく姿は、最初に姿を現したときと何ら変わりなかった。あれだけの炎に覆われたと言うのに、傷一付けることができなかったのだと思うと背筋がぞっとする。 「おまえ、下賤の割にはいろいろと考えていたようだな」  赤い目がじぃとこちらを見た。 「いや、姑息なところは下賤ゆえといったところか」  じぃと見据えながら、ゆっくりと口元が綻ぶ。それは何度も見てきた張りついたような笑みではなく、楽しみを見つけた幼な子のような笑みにも見えた。 「しかし、目当てのお方は現れぬ。あのお方は長く都を離れたままだ。戻ったという噂も聞かぬしな」  鬼の赤い目は他の者たちなど眼中にないとばかりに、ただじっと金花を見ていた。そんな鬼の様子に気づかないのか、陰陽寮の者たちはざわめき光榮(こうえい)殿も何かを叫び続けている。武士(もののふ)たちも青ざめながら必死に武具を手にしていた。  俺はそのざわめきを、どこか遠くのことのように感じていた。それくらい目の前の鬼から目も意識も離せなかった。 「つまり、おまえはここで死ぬということだ」  鬼の口がニィィと笑い、口の端から尖った牙がにょきりと現れた。見た目は変わっていないが、明らかに鬼の形相となった姿に首筋がぞわりと粟立つ。  傍らに置いた鴉丸(からすまる)に触れることさえできないほど右手が震えたが、ぐぅっと下腹に力を込め、渾身の気概で鞘を掴んだ。 「手出しはさせん!」  叫んだ言葉は、威嚇というよりも己への発憤に近い。そうでもしなければ目の前の鬼と対峙することなど不可能だった。 「騒ぐな。心配せずとも、そこの下賤のあとにおまえも特別に食ってやろう。男は好まぬが、なに、たまには珍味を食すのもまた一興。意外と旨いかもしれぬしな」 「……ッ!」  この鬼は金花を食らおうとしている。半分しか鬼でないとしても、鬼は鬼。食らえば多少なりと力が増すと思ったのだろう。  そんなことを許せるはずもない。その後に俺を食らうと言ったことなど、もはやどうでもよかった。 「金花を、こいつを食らうなど、俺が許さん!」  俺の言葉に鬼がフンと鼻を鳴らす。 「人ごときに何ができる? 退魔の太刀を持とうとも、我に傷一つ付けることもできぬというのに、どうすると言うのだ?」  鬼の言葉にぐっと詰まりながらも「それでもだ!」と叫べば、鬼がニィィと笑みを深めた。 「やめとけ」 「ッ、師匠……っ」  見上げると、険しい顔をした師匠が鬼を見ていた。俺の肩に置かれた左手にはやけに力がこもり、それが骨を軋ませてわずかに痛みを感じる。 「髭切の者の言うとおりだ。おまえらに我を斬ることなどできぬ。そこの下賤にも無理な話だ」  金花を抱く腕に力がこもった。  うっすらと目を開き鬼を見ている金花だが、俺の言葉に従って静かにしている。いや、もしかしたら話せないのかもしれない。肩の傷からは変わらず血が流れていて、押さえた着物の切れ端までぐっしょりと湿っていた。  鬼も気になるが金花の傷の具合も気になり、俺はただただ鬼を睨むことしかできない。 「カラギ」  身を屈めた師匠が小声で俺を呼んだ。目は鬼を見据えていながら、肩に手を置いたまま身をかがめて囁くように話しかけてくる。 「あの鬼は俺が引き受ける。その間に、そいつを連れて御所を抜け出せ」 「師匠」 「なぁに心配するな。俺だって鬼退治を担って三十年、そう簡単にやられたりはしないさ」 「しかし、」 「それに陰陽寮の奴らだっている。心許ないが、いないよりはマシだろう。あぁ、おまえん所の武士(もののふ)たちも借りるぞ」 「もちろんかまいません。ですが、俺がいなくなれば退魔の太刀は髭切だけになってしまいます」 「弟子に頼らなくてもなんとかなるさ。なァに、ただ太刀でやり合うだけが方法じゃない」 「しかし、」  小声ながら必死に訴えかける俺に、師匠は鬼に目を向けたままニヤリと笑った。 「そいつはおまえの大事な奴なんだろう? 鬼のことよりもそいつのことを一番に考えろ」 「え……?」  師匠の言葉に驚いた。まさか、気づかれてしまったのだろうか。 「そんな美形、そうそう出会えるもんじゃないからなァ。それに俺はな、どんな遠くにいても美人ならはっきり見えるし、絶対に忘れない特技を持っているんだよ」 「師匠、それは……」 「ま、心底好いた相手は大事にしろって話だ」  笑って俺の肩をぽんと叩いた師匠は、「さぁて、働くとするかァ」と言って背筋を伸ばした。そうして髭切をグッと前方に突き出し、赤い目の鬼を睨みつけながらニヤリと笑う。 「人とは愚かなものだな。決して敵わぬ我を前にしてもなお、刃向かおうとする」 「諦めないところが人のいいところだって、神様仏様は言ってるぞ?」 「ふん。神だの仏だとがどうしたと言うのだ。こうして我が人々を何人殺そうとも手を差し伸べることすらせぬであろう? そのようなものを信じるなど、愚かの極み」  ニィィと口の端を上げているからか、鋭い牙がますます目につく。背中で一つに結んでいた黒髪は風もないのにゆらりゆらりと宙を漂い、燃え残っている背後の火とあいまって鬼神のような様相だ。  そんな鬼がニタリと笑い、爪をひと舐めした。 (やられる……!)  このままでは師匠の腕をもってしても退けることはできない。焦りながらも絶望し、ただ金花を抱きしめる腕に力を込めた。  そのとき、ぶわりと一陣の風が吹いた。 「……ッ」  風は庭を真っすぐ横切り、御所の建物を舐めるように動いたあとしゅるしゅると小さくなってすぅと消える。何事かと目を見張ったが、風の名残か地面近くを舞っている木の葉しか見えない。 「神も仏も大したことないってのには賛成だが、おまえも言うほど大した奴じゃないだろう?」  突然聞こえてきた声に屋根のほうを見れば、そこには黒く大きな塊がどかりと座っていた。
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