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第1話
目が覚めると、違う世界の違う人間になっていた。
父親だという人に突然抱きしめられ、涙で寝衣をぐしゃぐしゃにされた。
まばゆいくらい驕奢を極めた部屋に、形容しがたいほど華やかな匂い。
腰まで伸びた銀髪。珊瑚のように赤い双眸。
わけもわからず目をしばたかせているわたしに、父親だというその人は、満面に安堵と歓喜の色を湛えてこう告げた。
「我が愛しき娘エルレイン、よく目を覚ましてくれた! これで殿下との婚約を解消せずに済む……!」
❈ ❈ ❈
「……雲」
真っ青な空を、真っ白な雲が流れていく。
「……鳥」
鮮やかなそのコントラストを背景に、群れを成した小鳥たちがピチュピチュと囀りながら羽ばたいていった。
この世界で通算15日目の、よく晴れた昼下がり。
屋敷の中庭でこうして何もせずに過ごすのが、いつのまにか日課となっていた。……実に贅沢だ。贅沢すぎて、不安になる。
目が覚める前、わたしは大学病院に勤める看護師だった。担当は外科。大怪我をした患者たちを、来る日も来る日もひっきりなしに看護していた。
頑張りすぎたのかもしれない。たったひとりの肉親だった母が亡くなって、悲しくて、寂しくて、気を紛らわせたくて。
二十五歳の誕生日に、勤め先の病院で倒れた。過労だった。同僚たちの声が院内を駆け巡るなか、遠退く意識の端を掴もうとして……やめた。
そうして、今から半月前。
わたしは、知らない世界の知らない国の、十八歳の伯爵令嬢になっていた。
「このドレスの価値、日本円に換算したら、いくらぐらいなんだろう……」
身に纏う豪奢なドレスをさすさすと撫でる。侍女曰く、これでも普段着らしい。ドレスと呼べる服なんて、着たのは同僚の結婚式くらいだ。
あまり裕福な家庭ではなかったため、高級品とは縁遠い生活を送ってきた。贅沢は敵。SDGsなんて言葉が普及する前から、我が家には無駄にできるものなんてひとつもなかった。
少しでも母を助けるために高校生の頃からバイトをして、大学も国立大学を受験して。
勉強して、バイトして、勉強して、国家試験を受けて。やっとの思いで得た仕事だったのに。
奨学金を完済できていたことが、唯一の救いだろうか。
「はあ……」
わたしが〝わたし〟として生きた人生を回顧し、嘆息していた折。
「お嬢様、お加減はいかがですか?」
すっと、華奢な影が伸びてきた。
「ルーチェ」
声の主は、侍女のルーチェ。胡桃色の天然パーマにそばかすが印象的な、可愛らしい女の子だ。
年齢はエルレインよりもふたつ上の二十歳で、侍女として彼女に仕えてから、かれこれ五年が経つらしい。
「あまり長時間日光を浴びていると、お体に障りますよ」
「そうだね。ありがとう、気をつける」
「……」
「……どうかした?」
ルーチェが、そのつぶらな瞳でこちらをじっと見つめてくる。眉根ひとつ動かさない、真剣な眼差し。思わずたじろいでしまう。
「本当に記憶がないのですね」
呟いたルーチェの声が、陽だまりにぽたりと落とされた。
そう。わたしには、エルレインとしての記憶がいっさいない。
エルレインは、避暑に行っていた別荘地で夕立に見舞われ、雷に撃たれて意識不明となったらしい。目覚める直前、たしかに心臓は停止していたとのことで、ふたたびこうして動けるようになったのは奇跡だと、主治医が心底驚いていた。
〝わたし〟としての記憶はある。本名である日本名もちゃんと覚えている。
エルレインであって、エルレインでない。彼女を知る人たちからすれば、中身の異なるまったくの別人というわけである。
「私のこと、なんと呼んでらしたか覚えてます?」
「……ルーチェじゃないの?」
そしてこのお嬢様。とにかく癖が強烈だったようで。
「いえ、名前では滅多に呼んでいただけませんでした。『ねえ』か、『ちょっと』か、機嫌のよろしくないときは『役立たず』と」
「え゛」
日に日に明かされる、耳を疑う数々のとんでもエピソード。
用意された服が気に入らなければ破り捨ててからの罵詈雑言。出された料理が気に入らなければぶちまけてからの罵詈雑言。
贅沢三昧の我が儘三昧。ひとつエピソードが追加されるたびに卒倒しそうだ。
「ご、ごめんなさい。もう絶対に言わないから」
自分が悪いわけじゃないのに、反射的に謝ってしまった。ルーチェのつぶらな瞳が、よりいっそう丸くなる。
エルレインになってからというもの、用意された服はありがたく着用しているし、出された料理はひと粒残さずありがたく頂戴している。無駄にするなんて、そんな恐ろしいことできるはずがない。
「……お嬢様」
「なに?」
「あの、お気を悪くなさらないでくださいね」
「?」
「私……今のお嬢様のほうが、好きです」
「え……?」
唐突なルーチェの告白に、今度はわたしの目が丸くなった。
この世界が現実だとわかった時点で、自分の置かれた状況に抵抗することはやめた。もちろん受けいれているわけではないが、抗ったところでどうしようもない。
昔からそうだった。貧しかったこと。母が亡くなったこと。多忙な日々を強いられたこと。
環境適応力、というより、これはもはや癖なのだろう。わたしの悪い癖——諦める癖。
なのに、こんなわたしを、彼女は好きだと言ってくれている。主だと、認めてくれている。
喜んでいいものかどうか。正解のわからなかったわたしは、眦を下げたまま、ただ微笑むことしかできなかった。
「……あ、そうだわ」
けれど。
たったひとつだけ。
「旦那様から言づけを頼まれておりました。明日の午後、殿下がお見えになるそうです」
いくら諦め癖の染みついたわたしでも、これには抵抗せずにいられなかった。
「殿下が?」
「はい」
「わたしに会いに?」
「もちろんです」
「……どうしても会わないとだめ?」
「そうですね。旦那様は、はりきっておいでです」
知らない世界の知らない国の、顔も知らない王子様との婚約。
エルレインは、ここジアラーク王国の第一王子——すなわち次期国王——と婚約関係にあり、王室への輿入れを控える身だという。
話を聞くかぎり、エルレインの父であるシナリク伯爵が、執念で掴み取った縁談のようだ。
エルレインの中身がわたしにすり替わっている以上、王子は別人と結婚するということになる。これはお互いにとって良くないことだ。絶対。
上手く話せるかわからない。けど、明日王子に直接話してみようか。
記憶喪失のこと。それから、婚約解消のこと。
「不安だな……」
「大丈夫です、お嬢様! 今のお嬢様なら、殿下も惚れ直すこと間違いなしです!」
まだ見ぬ人たちの、見えない感情が複雑に入り乱れるなか。
頭上には、白い弦月が、儚げに浮かんでいた。
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