第2話

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第2話

「ディアミド王太子がお見えになりました」  通算16日目の晴れた昼下がり。  バラの芳香漂う庭の一角で、わたしはついに王子と対面した。……まぶしい。まぶしすぎる。  陽光を受けて輝く滑らかな金髪。さながらアメジストを彷彿とさせる紫色の瞳。  寸分の歪みもない、彫刻のような相貌が、今まさに眼前に存している。夜勤明けの疲れた目なら、くらむこと必至だろう。 「わざわざご足労いただき、恐悦至極にございます。どうぞ、こちらへお掛けください」  本や映画で得た、なけなしの知識を振り絞っての接待。爆散しそうな心臓をどうにか宥めながら、必死に言葉を発した。  王子は、わたしの顔を見ることなく小さく肯くと、無駄のない動作でゆっくりと腰を落とした。  案内役の執事が下がり、この場で王子とふたりきり。  話すべきことは決まっているのに、どこからどう切り出せばいいかわからず、顔を下に向ける。執事が淹れてくれた紅茶の表面には、情けないエルレインの顔が映っていた。  この日、王子がここを訪れたのは、婚約者であるエルレインを見舞うため。そう、聞いている。 「体調は?」 「……え? あっ、おかげさまで、すっかりよくなりました。ありがとうございます」 「そうか」  うろたえてしまったために、言葉づかいが素の自分に戻ってしまった。素っ頓狂な声からの上擦った声……最悪だ。  王子は、紅茶に口をつけることも、焼き菓子に手を出すこともしなかった。何か思案に沈んでいるような表情で、じっと刺すように一点を見つめている。  エルレインと王子は初対面ではないはずだ。口を開けば、話に花が咲いたのかもしれない。けれど、わたしと王子は初対面。くわえて、異世界のしがない一般庶民なのだ。貴族同士の会話なんて、想像することすらできない。  どの角度からどう考えてみても、この婚約は解消したほうがいい。  そう思い、わたしは意を決して口を開いた。 「あ、あのっ」 「記憶がないというのは本当か?」  と、見事に発話のタイミングが王子と重なってしまった。 「あ、すまない」 「い、いえ。わたしのほうこそ。どうぞ、殿下からお先に」  このとき、ようやく王子と目が合った。  かすかに鋭さを帯びた眼差し。思わず背筋がぴっと伸びる。 「屋敷の者たちが話しているのを少し耳にした。……本当なのか、記憶がないというのは」  ここに通される最中、不意に聞こえてしまったのだと王子。  屋敷のコンプライアンスが少々心配にはなるけれど、隠すつもりなんてない、むしろ自分から伝えようと思っていたことなので、わたしは迷うことなく首を縦に振った。 「はい」 「何も思い出せない?」 「いえ、その……日常生活に関わることは、完全ではないですが、なんとか。……ですが、エピソード記憶、といいますか、その、これまで誰とどこで何をした、とか……そういうことのいっさいを、まったく覚えていなくて、ですね……」  嘘ではない。嘘ではないが、はっきりと別人だなんてカミングアウトできるはずもなく。  なんとも歯切れの悪い、なんとも事務的な口調になってしまった。 「じゃあ、俺と婚約していたことも……」 「……申し訳ございません。目が覚めて、はじめて知りました」  心臓を、鋭利な刃物でひと突きされた気分。だって、本当のことだから。嘘をつけば、後々大変なことになるんだから。知ってるんだから、社会人は。 「そうか」 「……っ、あ、あの……っ。ご無礼と承知で、言わせてください。ご覧のとおり、わたしには記憶がありません。まったく、ありません。このような状態で王室へ嫁ぐことは、殿下にも、国民にも、不誠実だと言わざるを得ない。……どうか、わたしとの婚約を、解消していただけないでしょうか」  言ってしまった。  地中深く埋める勢いで頭を下げる。できることなら、そのまま埋まってしまいたかった。  膝の上で握りしめたこぶしが、肩が、全身が、かたかたと震える。空気が痛くて、身が引き千切られそうで、怖くて怖くて顔が上げられない。 「エルレイン、頭を上げてくれ」  そんなわたしに、王子の声が注がれる。  低く、優しく、そっと頭を撫でるように。 「君の気持ちはわかった。できることなら、尊重したい。……だが、今ここで、俺の一存だけで、君の気持ちに応えることはできない。陛下……俺の父や、君の父上とも話をしないと」 「あ……」  そうだ。なんて馬鹿なんだ、わたしは。  貴族同士の、それも、かたや王太子の婚約という国の最重要案件、簡単にひっくり返せるはずがない。生じる波紋が大きすぎる。 「申し訳、ございません……わたし……」 「いや、謝る必要はない。……そんなふうに君に頭を下げられてばかりだと、調子が狂ってしまうな」  困ったふうに笑いながら、王子はその場に立ち上がった。天を仰ぐように、彼のその麗姿を見上げる。  すらりとした長身に、引き締まった体躯。相変わらず所作に無駄がない。  ——時間だ。  王子を見送るため、自分も立ち上がる。すると、目の端であるものを捉えた。  何千本、何万本と咲き乱れる美しいバラ。その中の一本が、無惨にも折れてこうべを垂れている。 「……エルレイン?」  それを摘み取ったわたしに対し、王子が不思議そうに首をかしいだ。 「そのバラ、どうするんだ?」 「せっかくきれいに咲いているので、水に差してあげようと。上手くいけば、挿し木にして増やせるかもしれませんし」 「……」 「……殿下?」 「あ、いや、なんでもない。……なあ、エルレイン」 「……? はい」  こちらに向けられた、紫色の双玉。そこに映じたエルレインの花顔が、ゆらゆらと揺蕩する。 「婚約の件だが、いったん保留というのはどうだろう」 「保留?」 「ああ。今はまだここだけに留まる話だが、その時が来れば、君の意向に舵を切れるように」  継続でも解消でもなく、保留。  今すぐ白紙に戻すより、おそらく衝撃は和らげられるだろう。問題を先延ばしにするだけかもしれないが、どのみち激震が走るのなら、できるかぎり規模は小さいほうがいい。  わたしは、王子からのこの提案を、謹んで受けいれることにした。 「ご高配に感謝いたします、殿下。……よろしくお願いいたします」  バラの香りを乗せた風が、わたしと王子のあいだを吹き抜ける。いつのまにか爆散しそうな心臓は凪ぎ、張りつめた緊張の糸は(たゆ)んでいた。  屋敷を去る際、王子はこう言葉をかけてくれた。「あのバラがどうなったか、よかったら教えてほしい」と。「また、話をしよう」と。  頭上には、昨日と同じ真昼の月。  幽玄な美しさをたたえながら、静かに地上を見つめている。 「あんなふうに優しく笑う殿下、私はじめて見ました!」  興奮気味にこう話すルーチェに対し、わたしは、ただきょとんとすることしかできなかった。
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