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第3話
ガラスの一輪挿しにバラを戻し、ライティングビューローの上に置く。なるべく直射日光が当たらないよう、かつ、暗くならないように留意して。
「ちゃんと世話できるか不安だったけど、病気にもかかってないみたいだし……よかった」
つんつんと、青くつやめく葉っぱをつつく。
あの日以来、こうして水替えをするのが新たな日課となった。花びらはすでに散ってしまったけれど、葉っぱ同様、茎も青々と輝いている。このまま順調にいけば、まもなく発根してくれそうだ。
先日、この世界で二度目の満月を見た。
広い空に皓々と冴える大きな満月。家と病院をただ往復していただけの頃は、とくに意識することもなかったけれど、あちらの月も、きっと劣らず美しかったのだろう。
胸に押し寄せる後悔や寂寥を刷新するように、ふるふるとかぶりを振る。
わたしはここで生きている——自分にそう言い聞かせながら、妙に馴染んだ自室をあとにした。
「エルレイン!」
「お父様」
ドアを開けたちょうどそのとき、父親であるシナリク伯爵と出くわした。満面の笑みを浮かべ、足取り軽やかにこちらへ近づいてくる。
けっして長いとは言えない時間。だが、この人を父親だと迷わず認識できてしまうほどに、自分はエルレインとしての時間をこの世界で過ごしてきたらしい。
「もうすぐ殿下が到着される。今日も庭で過ごすのか?」
「いえ、とくにそう決めているわけでは……」
「そうか。なら、応接間で茶会をしないか? シェフに極上の焼き菓子を用意させよう」
少し白髪のまじった銀色の髪。どこか冷たい印象を与える蒼眼は、娘の前ではあたたかく柔らかい。
伯爵の目には、どうやら娘と王子が仲睦まじく映っているらしく、至極ご満悦の様子だ。
「一時はどうなることかと思ったが……お前が目覚めて、元気になって、殿下との婚約も解消せずに済んだ。私は国一番の幸せ者だ!」
伯爵の笑い声が、廊下に高々と響き渡る。
……ごめんなさい。あなたの娘は、王子に婚約の解消を申し出てしまいました。
およそひと月ぶりとなる王子の来訪を前に大喜びする伯爵に、わたしはうしろめたい気持ちになった。胃がきりきりする。これから事態がどう動いていくのか想像もつかないけれど、現状王子の提案に身を委ねておくしかなさそうだ。
口は災いのもと。よけいなことは喋らない。
このフラグをまもなく全力でへし折ることになるなど、このときのわたしは知るよしもなかった。
❈
「エルレイン、これを」
王子が屋敷に到着するやいなや、わたしの視界から彼が消えた。
眼前に迫る、ユリやラナンキュラス、フリージアといった豪華な花々。彼から差し出された巨大な花束に、思わず息を呑む。ドクターたちが退職するときでさえ、こんな立派な花束は見たことがない。
「すごい……こんなにたくさん……。ありがとうございます、殿下。少しでも長く観賞できるよう、大切に飾らせていただきます」
驚きと感動で胸が詰まる。
抱えるようにして受け取れば、甘く濃厚な香りが鼻をくすぐった。
「当初はバラも入れるよう伝えていたんだが、ここには素晴らしいバラ園があるからな。……あのバラは元気か?」
「はい。順調に育ってくれて……発根したら、鉢に植え替えようと思っています」
花の隙間から覗き見上げれば、優しく微笑む王子と目が合った。一片も欠けるところのない、これほどまでにこまやかな心づかいを、いまだかつて受けたことがあっただろうか。
後ろに控えていたルーチェに花束を渡し、水揚げを依頼する。一礼し、身をひるがえした彼女は、すぐさま取りかかってくれた。
ルーチェはフットワークがとても軽い。そのうえ賢く器用だ。わたしだけではなく、屋敷全体を見渡し、そのとき何が必要であるかを瞬時に判断できる能力を持っている。
役立たずだなんてとんでもない。わたしがここでこうして生活できるのも、彼女が側にいてくれるからだ。
「部屋にご案内いたします。どうぞこちらへ」
王子と並んで、応接間へと向かう。すぐ後ろに王子のふたりの従者、そしてその後ろに伯爵が続いた。
背後から、熱い視線を感じる。ちらりと様子を窺えば、これでもかというほど口角を上げた伯爵が、嬉しそうにこちらを見ていた。
「……どうかしたか?」
「いっ、いえ、なんでも……!」
ひょっとして、王子が帰るまでずっとあの笑顔を向けられ続けるのだろうか。ものすごいプレッシャーだ。ある意味、上司だった師長よりずっと。
伯爵の熱い視線に耐えながら歩いていると、いつのまにか応接間の前まで来ていた。わたしがここを利用するのは、実はまだ片手で余るほどしかない。
待機していた執事が、わたしたちを室内へと招き入れる。すでに完璧にセッティングされてあるテーブルに、わたしと王子、それから伯爵の三人が着いた。
テーブルの上に所狭しと並べられた、まばゆいばかりにきらめく焼き菓子。断言できる。絶対に食べきれない。
父である伯爵のほうに鋭く視線を飛ばせば、「だって今日は特別じゃないか……!」という、今にも悲鳴が聞こえてきそうな表情をしていた。
心の中で盛大に溜息をつく。できることなら頭を抱えたい。
これまでも、屋敷では何度も食事を余らせていた。それが普通だったのだろう。余っても、使用人たちには絶対に食べさせない。
という、なんとも非合理的で非効率的な事象に、先日わたしはつい異を唱えてしまった。
——食べきれないなら食べられる人が食べればいい。もったいない。
まるで天変地異でも起こったかのように屋敷内は震撼した。主人と使用人が同じメニューを口にすることに、伯爵も使用人たちも大きな抵抗があるようだった。
これに対し、「同じメニューがだめなら違うままでもいい。とにかく残飯を少なく!!」と強く強く物申したところ、「それなら……」ということで、渋々ながらも双方納得してくれた。
仕方ない。このお茶会が終わったあと、余った焼き菓子は使用人たちのもとへ持って行こう。
だってもったいないじゃない!!
すべては、このひとことに尽きるのだ。
「シナリク伯爵」
突然、王子が伯爵に声をかけた。
直前にわたしに目で叱られていたせいだろうか。呼びかけられた伯爵は、緊張で少し顔が引きつっていた。
そんな伯爵に対し、凛然と王子が告げる。
「心づかいはありがたいが、今後、私に対するこのような歓待は不要です。すべて頂戴できないことが、逆に心苦しい」
目を見張った。この場にいる誰もが一様に驚いた。……彼の従者ふたりを除いて。
彼に会うのは二度目だが、聡明な人物であることはよくわかる。次期国王としてのカリスマ性も、おそらく申し分ない。
けれど、こんなにも謙虚で、こんなにも庶民に近い感覚を持った人物だとは思わなかった。
気持ちだけ受けとらせてほしい——そう締めくくった王子に、わたしは胸が熱くなるのを感じた。
前回会ったときは何も口にしなかった王子だが、この日はひととおり味わっていた。紅茶も二杯きれいに飲み干し、記憶のないわたしでも会話に参加できるよう配慮しながら、絶えず話題を提供してくれた。
心がぽかぽかする。
こんなに笑ったの、いつぶりだろう。
陽の光に、かすかに夕空の気配が滲む。王子のもとへ従者のひとりが近づき、何かをそっと耳打ちした。
楽しい時間は、あっという間だ。
「すまない。もう少しゆっくりしたかったんだが、これからハルバード公爵家に行くことになっているんだ」
「ハルバードこうしゃく……」
「ああ。……あっ、ハルバード公爵家というのは、俺の姉の嫁ぎ先だ」
「え? ……あ! 失礼いたしました。ハルバード公爵ですね。殿下のお姉様のアメリア王女が嫁がれた」
社交界へ戻る第一歩として、現在わたしは貴族の名前を片っ端から叩き込まれている。とはいえ、数が多すぎるゆえに、一度にすべて覚えろだなんて無理ゲー……否、鬼畜ゲーだ。苦肉の策として、王子に近しい関係者から攻略しようとしているものの、それでもこのザマである。
「やはりなかなか思い出せないか」
「……申し訳ございません」
「謝らないでくれ。こればかりは仕方がない。……姉上は妊娠しているんだが、最近体調がすぐれないようでな」
「そうなのですか。それはとても心配ですね」
「ああ。ふたりの命がかかっているからな。これから瀉血をするというので、見舞いがてら様子を見てこようと——」
「えっ、ちょっ……しゃけつ? 今、瀉血っておっしゃいました?」
あまり聞き慣れない、されど知識としては身についている単語に際し、つい王子の言葉を遮ってしまった。
「え? あ、ああ……」
「……っ、だめです!!」
無礼かどうかなど頭になかった。顔を真っ青にしてたじろく伯爵にも、驚き目を丸くする従者たちにも、まったく気がつかなかった。
このときのわたしは、伯爵令嬢ではなく、間違いなく看護師としてここにいた。
「アメリア様の症状を、詳しく教えてください」
現代でも、多血症や肝炎など、特定の疾病に対して瀉血療法が行われる場合があるが、この世界のそれはきっと同じじゃない。
瀉血とはすなわち、血液を体外に排出すること。もし、この世界のそれが、わたしがいた世界の古い時代のそれと同じなら、不調な体から不浄な血を抜けば症状が改善するという考えに基づいた、非科学的な行為だ。どのような方法で血液を抜くのか不明だが、方法いかんによっては感染症のリスクもある。——危険すぎる。
「……俺が聞いているのは、めまいやふらつき、倦怠感といった症状だ」
「めまい、ふらつき、倦怠感……」
「……」
王子の言葉を復唱し、これまで自分が培ってきた知識や経験の引き出しを懸命に探る。
次の瞬間。
「……妊婦」
わたしの頭に、あるひとつの仮説が浮かんだ。
「ひょっとすると、アメリア様は貧血かもしれません」
「貧血?」
「はい。妊娠中の女性は、貧血になりやすいんです。ヘモグロビンの生成に関わる鉄分の多くを、胎児に吸収されるので。ほかにも要因はありますが、とにかく一番に疑われるのは貧血です。貧血のときに瀉血なんてすれば、逆効果どころか命にかかわる……。お願いです、中止にしてください!」
王子に向かって声を張り上げる。
王族には珍しく、現国王には子どもがふたりしかいないと聞いた。彼にとって、たったひとりのきょうだい。生まれてくるのは、大事な姉の大事な子ども。
この人には、愛する家族を、喪ってほしくない。
「エ、エルレイン……」
「へ? ……あ゛っ!!」
今にも消え入りそうな伯爵の声で我に返った。全身から、猛スピードで血の気が引いていく。
やっっってしまった!!!!!!
いくらエルレインの記憶がないからってこれはない……しかも王子相手になんて失礼極まりない態度……。
口は災いのもとだって……よけいなことは喋らないって……。
ああ、やばい。
意識、飛びそう。
「で、殿下、あの、今のはですね、その……」
「妊婦が貧血の場合、どうすればいい?」
「え?」
「教えてくれ」
王子の真剣な眼差しが、わたしの瞳を真っ直ぐ射抜く。紫色の静かな双瞳。その奥が、まるで炎のように激しく明滅する。
ともすると、暴言とも受けとられかねないわたしの言葉。にもかかわらず、彼は泰然とした態度で耳を傾けてくれた。
「え、と……肉や魚を中心とした食事をしっかりとって、休息もしっかりとることが大事です。あと、もし紅茶がお好きなら、おつらいでしょうが、今は飲むことをお控えになるのがよろしいかと……」
「それは、紅茶に含まれる成分のなかに、貧血を促進するものがあるということか?」
「おっしゃるとおりです」
ばくばくと荒れ狂う心臓を無理やり抑えつけ、王子の質問にすべて答える。取り繕うという選択肢など、微塵もなかった。
王子は、しばらく沈黙したあと、従者に対してこう指示をした。
「今エルレインが言ったことをすべて書き記し、公爵家へ早馬を走らせろ。……俺たちよりも先に着くように」
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