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第4話
「いい天気……」
突き抜けるような青空。視界に降り注ぐまぶしい日差し。
目の前を往来する人々を見つめながら、わたしはタルトをぱくりと頬張った。
ひとくちサイズの小さなタルト。しっとりとした生地の食感と、酸味のきいた甘酸っぱいクリームが、絶妙の一品だ。
「ん、美味しい」
自分でも知覚できるほど、ぱっと顔が華やいだ。香ばしい風味が、ふわりと鼻から抜ける。
ヨーグルトクリームなんてはじめて食べた。濃厚なのに後味さっぱり。くせになりそうな美味しさだ。
この日、わたしは王子に誘われ、はじめて屋敷の外に出た。とくに何も知らされないまま、馬車に揺られることおよそ一時間。着いた先は、なんと城下町だった。
丁寧に敷き詰められた石畳が印象的な美しい町並み。その中心にある噴水広場では、ちょうど市場が開かれていた。飲食物や日用雑貨品、植物の苗木や伝統工芸品に至るまで、あらゆる物が露店で売られている。
さすがは歴史と文化の中心部。屋敷とは対照的な賑やかさだ。
現在、わたしはベンチに腰掛け、王子が戻ってくるのを待っている。彼の従者が付き添ってくれる隣で、眼前の景色をぼんやりと眺めながら。
市場を利用しているのは主に市民だが、意外にも、貴族の姿が散見できることに気づく。というのも、香辛料や宝石、陶器や金属製品といった高級品を扱っている店も出ているようで、そういったところを彼らは好んで覗いていた。
「エルレイン」
ふっと、頭上に翳りがさした。
足もとに伸びる複数の影。どうやら、無事に仕事がひと段落したようだ。
「お疲れ様でございました」
「待たせて悪かった。暑くなかったか?」
「はい、大丈夫です」
王子から差し出された手を、躊躇いがちに取り立ち上がる。彼の背後に広がる空には、真昼の月がうっすらと映っていた。
この日、彼がここに来た理由は、町の様子や人々の暮らしを視察するため。
ときどきこうして城下へやってきては、人々の声を直接聞いて回っているのだと、待っているあいだ彼の従者に教えてもらった。
「姉上推薦のタルトはどうだった?」
「とても美味しかったです。濃厚なのに爽やかで。町で流行しているというのも頷けます」
「そうか。それはよかった。……本当は、会って直接礼がしたいと言っていたんだが、まだしばらく屋敷から出られそうになくてな」
「い、いえ、そんな! どうかお気になさらないでください。……体調が落ち着かれたみたいで、本当によかったです」
終わった——前職モードが全開となったあの日、本気でそう覚悟した。前世の比にならないほど短かったけれど、今世での命はここで終わりを迎えるのだと。
しかし、わたしの見立てどおり貧血だったアメリア様の体調は改善し、ハルバード公爵から謝意を伝えられたシナリク伯爵は歓喜に舞い、今日も今日とてわたしは王子の隣にいる。
何がどうしてこうなったのか……いまいちよくわからない。わからないが、現状すべてが謎に上手く進んだことにより、ますます婚約解消しづらい状況に陥ったということだけはよくわかる。
「何か欲しいものはあるか?」
「……欲しいもの?」
「ああ。宝石とか、織物とか」
「え!? あっ、やっ、それは大丈夫です! ありがとうございます……!」
王子の質問に、わたしは勢いよくかぶりを振った。予期せぬ事態に思わず動揺する。
自信はないが、たぶんこれは申し出だったのだろう。欲しいものがあるならプレゼントするという、いわゆるセレブリティな作法の一種。
……断ったのまずかったかな。失礼すぎたかも。
だってたくさん持っているから。頭につけるのも耳につけるのも首のも指のも。ジュエリーボックスの中はびっしり。ワードローブだってパンパン。装飾品には、きっと一生困らない。
冷や汗をかきながら思案に沈んでいると、今度は向こうの池に行くことを提案された。いつもと変わらない整った温顔。まったく気にしていない様子だ。
ほっと胸を撫で下ろしたわたしは、ふたつ返事で彼に同行することに。
広場からもかすかに視認できていた。近づき、はっきりと見えてきたのは、大きな大きな楕円形の池。中央に浮かんだ小島には草木が生い茂っていて、周囲には数種の水鳥たちが集まっている。都会の中の小さな自然——小さな小さな楽園だ。
「わあ……きれいな場所ですね」
「落ち着くだろう? なるべく自然を損なわないように注意しながら、公園として皆が利用できるよう、少し手を加えている最中なんだ」
「公園……」
見れば、ところどころに資材が置かれており、工事途中であることが窺えた。そのほとんどは木材で、平らな板は重ねたり、丸太は頑丈な紐で縛ったりして、きちんと保管がなされてある。
「ウッドデッキの歩道にパーゴラ付きの休憩所。……素敵ですね。見ているだけで、なんだかわくわくします」
「何か見栄えがよくなるいい案はあるか?」
「え? っと……」
「できれば、忌憚のない意見を聞かせてほしい」
「……そう、ですね。バラ……は棘があるので危ないですが、藤のような花をパーゴラに絡めてみるのもいいかもしれません。あまり人工的になりすぎず、でも、時期が来れば、花やぐように」
「なるほど、それは名案だな。さっそく掛け合ってみよう」
王子は、今わたしが話した内容をすべての関係者に伝えるよう、従者のひとりに指示を出した。
この程度のアイデアで本当によかったのかと不安になるも、王子が採用してくれたことは素直に嬉しかったし、なにより自分の持つ花の知識を活かせたことに心が弾んだ。
「この公園は、殿下のお考えで?」
「ああ。……と言っても、市民の声をもとに動いただけだがな」
——広場の近くに、ゆったりとくつろげる場所が欲しい。
たしかに、先ほどの広場に休憩できるスペースはほとんどなかった。なくはないが、今日みたいにイベントが開かれている日は、集まった人に対して数が見合っていないというのが実状だ。親子連れも多く見受けられた。子どもがいれば、なおさら座って休憩する場所が必要だろう。
「部下から上がってきた報告をただ聞くのと、自分の目で現地を見て直接声を聞くのとでは全然違う。本当は国じゅうを見て回りたいんだが……難しいな」
切なそうに笑ってそうこぼした王子に、わたしは胸の詰まる思いがした。
生まれて二十五年。こんなにも誠実な人に、わたしは会ったことがあるだろうか。
周りの医師や看護師たちのことは、もちろん尊敬していた。彼らと過ごせた時間は、間違いなくわたしにとってかけがえのない宝物だ。
だけど。
「……殿下のそのお気持ちは、きっと国じゅうに届いています」
見開いた王子の目が、エルレインの——わたしの姿を捉える。
「そう思うか?」
「はい」
「……そうか」
届いているはずだ。だって、ほんの少し時間をともにしただけのわたしにだって、じゅうぶん伝わっているんだから。
この国を、民を、愛する彼の気持ちは。
「ディアミド殿下!」
突として高く響いた、若い女性の声。
まるでビー玉のごとく澄んだその声に振り返れば、そこには、エルレインとさほど年の変わらない、身なりのいい少女の姿があった。
ふわふわとした栗色の髪に、くりくりとした碧色の双瞳。ぷっくりと桜色に染まった唇が、幼くも麗しい笑みを象っている。
大量の買い物袋を携え後ろに控える男の人は、おそらく彼女の付き人だ。
「これはドナ嬢。お元気そうでなによりです。本日は市場に?」
ドレスの両端をひらっと持ち上げ、膝を曲げて挨拶をした彼女に、王子が言葉をかける。彼の応対から推察するに、どうやら彼女も貴族のようだ。
「はい! 宝石や、東方の珍しいものを買いに!」
彼女が発する言葉、そのひとつひとつのハリとツヤがすごい。めちゃくちゃ元気な子だな、などと感心していると、彼女のその碧眼が今度はわたしに向けられた。
「久しぶりね、エルレイン。病気で養生してたんですってね。……しばらく見ないあいだに、なんだか地味になったわね」
当然というべきか、やはりエルレインとも知り合いだった。が、エルレインが〝記憶喪失〟であるということまでは知らないようだ。
困ったな。はじめましてなんだよな。
心の中でひそかに呻吟していると、なんとなく察してくれた王子が、小声でこっそり耳打ちしてくれた。
「彼女はミュイラー伯爵の令嬢ドナ。年齢は、たしか君と同じで十八歳のはずだ」
王子のナイスアシストのおかげで、わたしは頭の引き出しからミュイラー伯爵の名を取り出すことができた。なるほど、この子がミュイラー家の。
リストを頭に叩き込む際、ルーチェからきつく言われていた。ミュイラーの名は、絶対に覚えておくようにと。
シナリク家とミュイラー家。爵位の同じふたつの家は、いつの時代も何かと張り合ってきたらしい。どちらかが屋敷を大きくすれば競い合い、どちらかが珍品を手に入れれば競い合い……。
そのたびに、シナリク家が僅差で勝ってきたのだと、ルーチェは興奮気味に語っていた。今回の婚約の件も、シナリク家とミュイラー家のあいだで、それはそれは熾烈な争いが水面下で繰り広げられていたのだそう。
わたしのことなどお構いなしで王子と話を続けるドナのほうを見やる。わかりやすいまでの猫なで声。同僚にも似たような子がいたけれど、わたしはものすごく苦手だった。
……わあ。ドナ嬢、めっちゃ睨んでくるじゃん。
それもそのはず。婚約のことを抜きにしても、何かにつけてちょっかいを出してきたドナのプライドを、エルレインは都度ずたぼろにしてきたらしいのだ。話を聞けば五十歩百歩のような気もするが、ドナにとっては、憎くて憎くてたまらないのだろう。
「いけない! わたくしったら殿下のお邪魔を。今日はこれで失礼いたします。……来月開かれる王室主催のパーティー、楽しみにしておりますわ」
王子に対しては余すことなく愛想を振りまき、わたしには舌打ちさえ聞こえてきそうな目つきを投げつけて、ドナはこの場をあとにした。
さながらつむじ風。良くも悪くも正直な子だ。
「日が落ちてきたな。俺たちもそろそろ帰るとしよう」
「はい」
もと来た道を辿り、広場のほうへと向かう。日没が近づいているからだろうか。肌に当たる風が、しだいに冷たくなってきた。
なんだろう。
妙な悪寒を感じる。
かすかに全身が粟立った。空気が重い。気温、のせいじゃない。……嫌な予感がする。
奇しくもその予感が的中したのは、わたしたちが歩き始めてしばらくしたときだった。
「?」
不意に、硬質な音が鼓膜を揺らした。立ち止まり、首をぐるりと巡らして音の根を探す。
立ち止まらなければよかった。素通りすればよかったのだ。
そのことを、わたしは激しく後悔することになる。
「危ない!!」
「きゃあっ!!」
一瞬だった。
崩れてくる丸太を視界におさめたそのとき、王子の叫び声が聞こえた。刹那、目の前が暗転し、気づけば地面に横倒しになっていた。にもかかわらず、それほど痛みを感じなかったのだ。
「大丈夫か!! 怪我はっ……!!」
「あ……わ、わたしは大丈夫です……」
いったい何が。
混乱する頭で必死に状況を整理する。
周囲に散乱した資材。わたしに覆い被さる王子の姿。彼が助けてくれたのだと理解するまでに、かなりの時間を要してしまった。
理解できたとたん、自分の顔が急速に青ざめていくのを感じた。
「殿下、血が……っ」
「え? ああ、大丈夫だ。大したことない」
王子の腕から滲み出す真っ赤な鮮血。おそらく、わたしを庇ったときに地面で擦りむいたのだろう。じわじわと、赤く染まる部分が広がっていく。
けっして小さくはない擦過傷。外傷が原因となるさまざまな感染症の名が、高速で脳裡を駆け巡る。
手当てしなきゃ。早く。でもどうやって?
ここは病院じゃない。処置する道具なんて何もない。
だめだ。諦めるな。考えろ、考えろ、考えろ——。
「……っ、清潔な水を持ってきてください! あと、市場でワインと綿布を! 急いで……!」
近場で調達できそうなものを並べ、従者たちに指示を飛ばす。わたしの言葉に、従者たちはすぐさま反応してくれた。
「申し訳ございません、殿下。少し痛みますが、ご辛抱を」
「……」
そう言って、わたしは着ていたドレスの袖を引き千切った。あまり処置に適した生地とは言えないが、この際仕方がない。
王子の腕に巻き付け、縛るようにして止血を施す。出血が大事に至ることはまずないだろう。懸念すべきは、感染症だ。
「……エルレイン、君は……」
「え? あっ、ご、ごめんなさい。痛いですよね。もう少し、物が揃うまでこうして押さえ——」
「君は……誰だ?」
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「ディアミド様に怪我させるなんて何やってるのよ!! わたくしはエルレインだけを狙うように言ったはずよ!! 言ったわよね!? ほんっっっと使えないんだからその辺のゴロつきは!! ……あの女さえいなければ、ディアミド様の隣にいたのはわたくしだったのに……あのまま病気で婚約が解消されれば、わたくしがディアミド様と婚約していたはずなのに……なんであの性悪女が婚約者なのよっ!! ……まあいいわ。来月のパーティーで、婚約を解消せざるをえないほどの赤っ恥かかせてやるんだから。今度こそ寝首を掻いてやる……っ!!」
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