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月の夜にだけ現れる生き物がいる。
そんな言い伝えが、僕が子供のころ暮らしていた集落にあった。だから月の出る夜は出歩かないようにと言われていたし、実際に月の出た夜に何かが起こったというような話もたまに聞いていた。子供だった僕は、その話を信じて、とても怖がっていた。だからなのか、今でも月を見ると、少しぞくっとする。ただきれいなだけで、怖くなんてないはずの月なのに。
と、そんなことを思い出したのはちょうど今日が満月の夜だからだ。窓からぼんやりと月を見ていて、そんな記憶が戻ってきたのだ。そして、そんなのは作り話だと思っていた。そもそも月の出る夜だけ現れるなんていうのが今どきおかしいのに加えて、月の出た夜に起こった出来事というのが、奇妙なものばかりだったからだ。
例えば、その生き物に血を吸われ、干からびてしまった人がいる。その生き物にさらわれて帰ってこなくなった人がいる。畑が荒らされ、奇妙な絵が描かれていた、池が真っ赤に染まっていた、だとか、そんなものだ。何かのホラー映画みたいに、人を怖がらせるような話ばかりだということからも、子どもたちに向けて、夜に出歩かないようにと戒めるための、伝え話みたいなものだと考えていた。
けれど。そのことを思い出して、僕は不安な気持ちになった。というのは、最近この辺りでも、似たようなことが起こっているらしいからだ。いや、さすがに血を吸われて干からびただとか、奇妙な絵が描かれていたとか、そこまで不思議なことではないのだけれど、夜な夜な、人が襲われたりすることが増えているらしい。それも、月の出ている夜に。
いや、きっと関係ない、と僕は考え直す。今の世の中、ひどい人がたくさんいる。事件もあちこちで起こっている。たまたま月の出ている日にそういうことが重なっただけで、あの集落での話とは無関係だろう。それともあるいは。
月には何か力があるという。それなら、月の夜だけ、その月の影響を受けて、性格が少し変わってしまう人もいるだろう。少しだけ狂暴になってしまったり、何かが抑えられなくなったり、だから悪いことをしてしまう人が出てくる、そんな程度の話なのではないだろうか。
そしてそう考えるなら、あの集落で起こった事件というのも、月の影響を受けた人が起こしたものだとも考えられる。
そんなふうに考えながら僕は立ち上がった。いや、立ち上がろうとしたけれど、立ち上がれなかった。体が重いのだ。どうしたのだろう。さっきまで体調もよかったのに、突然おかしくなった。胸も、少し苦しい。ただ。この苦しみは、以前にも経験したことがあるような気がした。それも、何度も。
思わず胸を抑えて、その胸と手の感触がなんだか気持ち悪くて、驚いて手を見ると、僕の手は、赤く汚れていた。それで、僕はようやく思い出す。
月の夜だけ現れる生き物がいる。
僕は、その生き物なのだ。現れたあとしばらくは記憶がない。だから、自分が何をしたのかわからない。しばらくすると、ゆっくりと、自分のことを思い出す。けれど、しっかりと思い出す頃には、月が。
見上げると、月は薄くなり、周りが明るくなり始めていた。あぁ、また忘れてしまう。苦しい。胸の苦しさ以上に、何より、心が苦しい。
僕と遭遇した人は、どうなったのだろう。僕は、何をしたのだろう。みんな、無事だろうか。
けれど僕は、その苦しみさえ忘れてしまい、眠りにつくのだ。次現れた時は、もう少し、自分のことを覚えていたい、と思いながら。
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