近づくこと、離れること

5/7
前へ
/131ページ
次へ
「食べないのか?」 「はい」 「手を付けていないようだが、腹は減っていないのか?」 「大丈夫です」 本当はお腹が空いてしょうがないけれど、食べられないから仕方がない。部長が歓迎会に戻ってくれれば解決するのに、このパターンではいつも私が貧乏くじを引く羽目になる。だから、そっけなくして断るしか方法がないのだ。 「最後まで参加せずに申し訳ありませんが、お先に失礼します」 「少しだけ、少しだけでいいから俺の話に付き合ってくれないか?」 本音は帰りたかったけれど、拒むことも出来きない優柔不断さ。私はゆっくりと頷いた。 「上の方だけしか見えないけど、東京タワーが見えるだろう?」 「はい」 「東京タワーを見た時、帰ってきたな、と思ったんだ。なんだかんだ言っても東京タワーはいいよな」 日本から出たことがない私には分からないけれど、長く離れていた部長には感慨深いものがあるのだろう。 「だいぶ中は変わったか?」 「それほどでは。お茶の当番がなくなったくらいです。コーヒーマシンは一度点検と修理をしましたが、まだまだ現役でおいしいコーヒーが飲めますし」 「白石はコーヒーが好きだからな。良かったよ」 「……はい」 「それと……」 「はい」 「産業医だけど」 「……はい」 「診察に来てくれと依頼があったぞ」 私は面倒で行かなかった訳じゃなくて、行けば思い出したくない過去を話さなければいけなくて、それが嫌で行かなかった。
/131ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2189人が本棚に入れています
本棚に追加