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結局名前もまともに聞けなかったあの女は、自分で取った部屋にも関わらず一銭も払わず帰ってしまった。連絡先は一応まだ残っていたが、今から此処に呼び戻す余裕もなく、最終的に全額払ってさっさとホテルを出ることにした。明日も出勤日だったので、一泊する選択肢はもはや用意されていない。
人気の少ない道路沿いの歩道を延々と歩き続ける。車の往来も少ないせいか辺りは耳鳴りがする程の静寂で包まれていた。普段なら鼻歌でも歌っていたところだったが、今は到底そんな気分にもなれない。
未だに痛みが治まらない。歯痒い思いで俺は胸をさする。
全部あの女のせいだ。そう悪態をつこうと奴の顔を思い出そうとするが、どう足掻いてもノイズがかかる。それどころか記憶の糸を手繰る度に、胸の痛みがより一層増してしまう。
アイツの言葉に肖るのなら『発見』されてしまったのだろう、俺自身の弱みという奴を。それが愚かにも磁石の如く、別の弱みを引き寄せようとしている……随分と厄介な呪いだ。そうやって独りごちる俺の口元は、何故か笑っていた。
……やってやるよ。
エントリーシートを埋め尽くすように、榻の端に誠意を書き連ねるようにこの身体を火傷でいっぱいにしてやる。それで本気の恋ができるようになってから、アイツに仕返しする。これ以上にない最高のリベンジだ。
本気で食いにかかる恋愛がどれほど波乱万丈で、攻略困難か想像もつかない。だが、この呪いを解くためだ。怖気づくな。
長い微睡みを覚まそうと、頬を両手で思い切り叩く。目も眩むような満月の光が、乱雑に俺の行く先を照らす。新しい一歩には持って来いのシチュエーションだった。
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