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 いや、正確には言葉が詰まった、と表した方が適切なのかもしれない。  持論を羅列している最中、胸の辺りに強い衝撃が走り、ベッドの柔い感触へと身体が吸い込まれていく。視界が縦に大きく揺さぶられ、徐々に安定していく。この時初めて、真珠の女が俺を後ろに突き飛ばしたのだと理解した。 「な、何をして──」  そう言いかけたものの上手く繋がらなかった。胸骨が妙に圧縮されて、息が出来ない。視界の先にいる化け猫の顔はアルコールのせいか僅かに紅潮し、まさしく獲物に食いかかろうと舌なめずりしている。 「ねぇ、先輩。先輩って……意外と臆病ですよね?」  甘い声音で耳を麻痺させながら、悠々と俺の足元に跨った。ベッドのスプリングが軋み上下に揺れる。視覚に入る情報を、脳が非現実的だと拒絶していた。 「相手に嫌われるのが怖い。自分から攻めて煙たがられるのが怖い。それで自尊心を傷つけられるのも、勿論怖い。だから卑屈な言葉を並べて、自分を強く見せようとしている」  俺の胸の上を、女の二本の指がゆっくりと歩く。一歩、また一歩。足踏みが響く度に心臓の鼓動が速くなり、全身に熱い血が巡っていく。拒絶しようとしたものの、身体が縛られたように動かない。 「でも、女性側はその『弱さ』を求めているんです。同時に、自分の弱みを相手に共有したい──発見してほしいと思っているんです。お互いのことを共有し合って、お互いに労わっていく。それが恋愛というものなんです」  そう言い終えたのと同時に、俺の身体にのしかかる。直接伝わっていく人の重みと、温もり。胸元に密着する柔い感触の正体は、極力考えないようにした。首から漂う香水の匂いと黒髪の優しいシャンプーの香りが、寸でのところで繫ぎ留めていた理性をいたずらに刺激してくる。  真珠の女の顔が、文字通り目と鼻の先にある。プリンのような唇が上下でくっついては離れていく様も、瞳の奥で不覚にもたじろいでいる自分の姿すら、はっきりと見えてしまう。 「ねえ、今先輩すっごいドキドキしてるでしょ? 意外とウブなんですね。……でも私だって今、羞恥心を抑え込んで自分の弱みをあなたに預けているんですよ? 私、他の子と比べて瘦せ型なので、身体的な魅力が足りてないですし」  ねえ、先輩──吐息の混じった色っぽい声が、耳元から直接流れ込んでくる。彼女の髪の毛先が首元に触れて、全身の産毛が粟立った。 「……本当に好きな人とする時って、もっと気持ちがいいんですよ?」  自分の固唾を飲む音が、耳の奥でやけに大きく響く。 「その今にも燃えそうな感覚、絶対に忘れないでくださいね。それが恋の起爆剤になって、色んな風に変化していきます。……恋愛っていうのは、そういう過程を楽しんでいくものなんですよ」  そんな言葉が空気に溶けていくのと共に、彼女の重みや温もりが徐々に離れていく。ようやく、まともに息ができるようになる。ただ、動悸と顔の熱だけは距離を置いても尚、元に戻らないまま確かな異常として残ってしまった。  何故あんなに動揺したのか。我ながららしくない。それに、この胸の空虚感は何なんだろう。どうしてこんなに、悲しくなるんだ。 「良いですか。次からは消極的になっちゃ駄目ですよ? その呪いを解きたければ、誰かを本気に好きになって、本気で落としにいってください。先輩の場合、残る問題は性格だけですから大丈夫ですよ」  見れば、真珠の女は既にベッドから立ち上がって、乱れた服装を直していた。困惑する俺とは対照的に、飄々とした態度を保ちながら。 「安心してください、先輩。さっきの感覚さえ覚えていれば、あとは誰だってケダモノになれますから」  そう言い残し、手をひらひらさせながら玄関口へと向かっていく彼女の背中を、俺はただ呆然と眺めることしかできなかった。ただ胸の奥から掘り起こされた妙な感覚だけが、じわじわと焼け跡を広げている。
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