小野寺賢吾〈ゴミ屑と老婆 後編〉

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小野寺賢吾〈ゴミ屑と老婆 後編〉

 あんた、いつかひとを殺す顔してる、ね。  なぁ佐藤くん。もし、もしも、だよ。きみが同じことを聞かれたとしたら、どんな顔をすると思う? 怒るかい? それとも気味が悪い、と怯えるかな? 何、馬鹿なことを、って笑うかな?  俺は……そうだな、あの時の自分の顔を、俺自身は見れないわけだけど、だけど俺は意識的に困ったような表情を作ろうとした。その表情がふたりにどう映ったかは分からないけど、な。  だけど心のうちでは怯えていた。  まだ知らない未来を言い当てられたような気持ちになったんだ。もしかしたらいつか俺は、ひとを殺してしまうかもしれない。むかしから、そんな得体の知れない恐怖を持っていて、な。学生時代の友人に一度、相談したことがあるんだ。俺、おかしいのかな、って。 『殺人なんて、自分は絶対しない、って理性をしっかり持ってれば、一生することはないよ』  未来なんてどうなるか分からないのに、そいつは絶対に殺人者の側に立つことなどない、と確信していて、俺にはその確信が不思議で仕方なかった。でも普通の考えなのかもしれないな、とも思ってた。  だけど俺は曖昧な未来に、絶対、なんてつくれない。  まぁ、いいや。で、このばあさんがどういうつもりで言ったのかは分からない。ただの趣味の悪い冗談だったのかもしれない。どっちであれ、このばあさんに俺が良い印象を抱けなかったのは事実だ。  とりあえずはその言葉は気にしないように、と自分自身に言い聞かせた。俺は数日間、ここで無心で仕事をするだけ。その間だけの関わりだ、ってな。  佐藤くんは部屋の掃除はしっかりとするほうか?  おざなりにしているうちに、気付けばゴミだらけに、なんてなったことはないか?  実は俺も、な。そんな部屋は綺麗なほうじゃなくて、十代の頃は本当に汚い部屋だったんだ。でもいまは定期的に部屋の掃除もそれなりにするようになった。それは大人になったから、とかそんな話じゃなくて、この頃の経験が理由のような気がするな。  ひどい惨状の部屋を出会った時に抱いた強烈な嫌悪感を反面教師にするみたいに、さ。俺は絶対にこんな部屋にはしないぞ、ってな。普通に生きてればゴミ屋敷になんてならない、と思うか? そんなことないさ。あのばあさんがどうだったかは分からないが、きっかけなんて些細なもので、誰にだって起こりうることだよ。ひとは理解できないものを見ると、自分とは違う、と明確な線を引きたくなる。だけど大抵は地続きにあるものなんだよ。  すくなくとも俺はそう思っている。  ……と、また脱線しそうになったな。脱線してばかりだ。まるで俺自身の人生みたいだ。  ばあさんの部屋の掃除だよ、本題は。  結果として俺たちがそのばあさんの家を掃除をしていた期間は、一週間だ。たった一週間だが、憂鬱さも込みで、一ヶ月くらいには感じられたよ。もっと人数がいりゃ、三日くらいで終わったのかもしれんが、ふたりだとそういうわけにもいかない。……まぁ、終わった、って言っても、あれを、終わった、と表現していいのかは分からないが、な。  先輩とふたり、ってこともあって、憂鬱だったのは事実だが、作業自体は和やかに進んだ。『あんた、いつかひとを殺す顔してる、ね』とか、ばあさんはときおり変なことを言うひとだったし、好感を持つことはできなかったが、話好きで、あまり退屈はしなかった。  先輩に似ているらしい息子の話が特に多かった、かな。実際に写真を見せてもらったんだが、そっくりとまでは言わないが、確かに似てた。息子さんは二十代の時に駆け落ちをして、もうそこからは会ってない、って言ってたな。息子さんが結婚しようとしていた相手女性の出自を嫌って、ばあさんが死んだ旦那さんとふたりで、猛烈に反対したそうだ。寂しそうな声で語っていたよ。そんな体裁を重んじる人間が、いまはゴミ屋敷で暮らしている状況に、なんとも言えない歪さを感じたな。  そんなに大きくないクローゼットを指して、「息子の想い出だけは色々そこに置いてあるんだ」って言ってたな。そこには絶対に近寄らないでくれ、って最初に伝えられていて、誰にも触れられたくない想い出なんだろうな、って思ってた。  まぁ別に近隣から苦情が来ない程度にさえ片付けられればいいわけだから、俺たちにとっては仕事が減るのはありがたい話だし、もし何も言われなかったとしても、タンスやキャビネットになんて手を付ける気もなかった。 「お、またいるぜ」 「なんですか?」 「ほらよ」  と先輩が投げてきたものが顔に当たると、地面に落ちて、そして動き出した。生きた蜘蛛だった。  俺は一応こう見えても、決まった以上はどんなに嫌でも、それなりには真面目に仕事するほうなんだが、先輩は仕事も雑だし、手よりも口が動くし、悪戯も多い。悪戯、ってのが、人数が多い時はそれなりに分散されるんだが、残念ながらその時には俺しかいないから、な。全部、俺に来るんだ。  結構大きな蜘蛛だったよ。別に虫が好きなわけじゃないが、こういうところで何度か作業すると嫌でも慣れてくるものさ。  俺は、その蜘蛛を踏み潰した。 「おい、いいのか」と先輩が笑った。「蜘蛛を殺したら、もう地獄に落ちてもお釈迦様は、救いの手を差し伸べてくれないぞ」 「なんですか、それ?」 「なんだ、太宰も知らないのか?」  ……変な顔するなよ。先輩は知識がある振りをしたがるが、間違いが多いんだ。知らずに指摘できない俺も情けないが。もちろんいまは知ってるよ。「蜘蛛の糸」は芥川だ。太宰はなんだっけ。あぁ、「人間賛成」とかだったかな? あれ、違う? まぁいいか、どうせ人生で読むこともない小説だ。 「知らないです」 「まったくこれだから文学に素養のない奴は。地獄に落ちた悪人が蜘蛛の糸を使って這い出ようとする話だよ」 「地獄ですか……」 「あぁ俺たちが行く場所だよ」  勝手に俺まで入れるな、とは思ったけど、な。とはいえ、まぁ俺が天国に行けるとも思わないから、文句も言えない。  まぁなんだ、こんなどうでもいい話をしながら、一週間、ゴミだらけの部屋を掃除するわけだ。これも地獄と言えば地獄だよ。本当の地獄なんて、俺は知らないが。  蜘蛛の話ついでにするとな、虫が本当に多かったんだよ。生きているやつも死んだやつも含めて。生ゴミが多かった、ってのもあるし、あとペットでも飼ってたのかなんかの獣が勝手に住み着いていたのかは知らないが、部屋の端に糞が溜まってたりするんだ。気持ち悪いよな。適当に落ちてるナイロン袋を叩いたら、三匹くらいゴキブリが飛び出してきたり。かさかさかさかさ、って動き回るんだ。嫌だろ。  でもどんな部屋でも、何日も集中して掃除すれば意外と綺麗になるもんさ。 「へぇ、あんたたち、意外と真面目にやるんだね」  五日目だったかな。ばあさんがそんなこと言ってたな。確かに俺や先輩に勤勉な雰囲気はないからな。どうせこいつらは適当にやる、と思ってたんだろう。 「そうだろ、ばあさん」  まるで自分ひとりだけの手柄みたいに、先輩は自慢げに答えてた。 「いっそ、うちの息子にでもなって、ここに住みなよ」  これは、ばあさんから先輩に向けての言葉だ。  冗談か本気か分からない口ぶりだったよ。いや、結構本気だったんだろうな。五日くらい経ってくると、多少ばあさんの身の上も分かってきて、さ。ひとり暮らしも長いみたいだったからな。  前置きしておくが、ばあさんが自分で言っただけで、事実かどうかは分からない。だけど元々そのばあさん、ってのが、女優だったみたいで。舞台を中心に活動してたんだって。って言っても、無名作品の端役ばかりだったらしくて、仕事だったり、人間関係で迷った時に、かなり胡散臭いタイプのオカルトにはまった、とか言ってたからな。団体活動をしてたそこはなんとか抜け出した云々、って話を俺に聞かせてくれたよ。  あんた、いつかひとを殺す顔してる、ね。  とか言う限り、どうだかな、ってのが、俺の本心だ。ただ女優だった、ってのは真実な気がするよ。年輪を刻んだその顔をイメージの中で若返らせてみれば、確かにむかしは画面に映える顔をしていたのかもしれないな、って思う魅力の名残りがあったからだ。 「嫌だよ。ばあさんとふたりで住むなんて」 「生意気だね」  先輩の口の悪さにも、そんなに嫌な顔はしてなかった。先輩の肩を楽しそうに叩いてたな。たった数日でよくこんな気を許せるな、って思ったもんだよ。  そして最終日だ。  完璧、とは言わないけど、依頼人が見ても文句を付けられないくらいには綺麗になった。ゴミ屋敷、って不思議だよ。汚かった最初の状態を知っていれば知っているほど、片付いた状態のほうがおかしく見えてくる。なんであれが、こんな景色になるんだ、ってな。  途中、俺はコンビニに行ったんだ。  先輩に、タバコを買ってきて、って言われてさ。あれ、もしも断ってたら、未来はまったく変わってたのかな、って思わなくもないが、そんな仮定の話をしても仕方ないな。現実として、起こってしまったわけだから。  帰ってきたら、さ。  何があった、と思う……?  倒れてたんだ、ばあさんが。頭から血を流して。先輩は古臭い、最近はあまりみないタイプのガラスの灰皿を手に持ってた。 「先輩、それ……」  振り向いた先輩は、やけに怯えたような顔をしてたよ。あんな先輩の顔を見るのは、はじめてだった。 「あ、あぁ」  先輩の声は相槌、っていうよりは、必死に絞り出した呻き声みたいな感じだった。 「死んでるんですか?」 「……お前は、どう思う?」  この状況で、俺の問いに対する返答として、先輩のそれはあまりにもふざけたものだったけど、たぶんあの時、先輩は何もふざけてなかった、と思う。死んでないですよ、なんて俺が返してくれるのを願っているように、俺には見えたからだ。  ばあさんの肩を揺すって、声を掛けてみたけど、反応はなかった。 「とにかく」とばあさんの家に置いてあった固定電話に向かったら、さ。肩を掴まれたんだ。先輩に。 「おい、何する気だよ」 「救急車を呼ぶんですよ。決まってるじゃないですか」 「もう死んでるよ。見りゃ、分かるだろ」 「分かりますけど……なら、警察呼びますか?」 「事故だったんだ。ばあさんが息子の名前を言いながら、俺の太ももをさすってきたんだ。気持ち悪いな、って正直に言ったら、怒ってさ。俺から先に何かしたわけじゃない。向こうがいきなりこっちにぶつかってきたから、近くにあった、これで」そう言って、先輩は手に持ってた灰皿を見た。「事故、っていうか、正当防衛みたいなもんだろ」 「そう思うなら、自分で警察に言えば――」  最後まで言わせてはくれなかった。先輩が俺に灰皿を投げ付けてきたんだ。思いっきりな。運良くかわすことができたけど、あれ、当たってたら俺のほうが死んでたかも、な。その瞬間、俺は我を忘れてた。俺は先輩に掴みかかって、床に倒した。腕っぷしは俺のほうが強かったから。馬乗りになって、殴ってた。何度も何度も、口の端から出た血が俺の拳に付着してな。それを見ながら、俺の怒りはさらに増した。赤は闘争本能を高める、っていうのかな。汚い血を俺の手に付けさせるな、って思ったし、あんまり覚えてないけど、実際に口にも出していたかもしれないな。最後は首を絞めて――。力を込めた。  最後?  あぁそうだよ、殺したんだ。そんなに怯えるなよ。むかしの話だ。  殺してすぐに聞こえた声が、 「やっぱりあんた、ひとを殺したね」  って、ばあさんの声だ。  俺は最初てっきり自分の心の声だ、と思った。でも違ったんだ。  死んでいたはずのばあさんが、そこに立っていた。生きているのか死んでいるのかも分からない。いや立っていて、声を発しているんだから、普通に考えれば生きているんだろう。だけどさっきまでの倒れていたばあさんの姿は、生きている人間のそれじゃなかった。 「やめろ、そんな目で見るな」  俺が必死に絞り出した声は、俺が想像していたよりも、ずっと弱々しく小さかったよ。 「やると思ってたよ。あんたなら絶対」 「違う」 「何が、違うんだい。人殺し人殺し人殺し」 「違う違う違う」  俺は気付けば、ばあさんの首を絞めていた。殺意があったわけじゃない。これ以上、しゃべらないで欲しくて。きゅぽん、と気味の悪い音がばあさんの口から漏れて、ばあさんは沈み込むように、また倒れた。あれは俺が殺した、ってことになるのかな。だってもともと死んでた人間が、また動かなくなっただけだ。ゾンビを殺して、殺人罪は成立するか、って話だ。まぁなんてことを俺が言ったとしても、警察は、国は、信じちゃくれないわな。  そして俺の周りで生きているのは、俺だけになった。  とりあえず隠し場所を、って思って、目に入ったのが、ばあさんが近寄らないでくれ、って言ってた、あのクローゼットだ。とりあえずの隠し場所として最適とは別に思わなかったが、でもとりあえずの場所としてはそこまで悪くはないかな、って思ったんだ。分かってるよ。ただの浅知恵だ。  だけど俺と同じ浅知恵を持った人間は他にもいたみたいだ。  クローゼットを開くと、さ。  あったんだ。  そうこの部屋には、俺以外、三つの死体があったわけだ。  その白骨化した死体を見た時、別に俺は法医学者でもなんでもないが、すぐにばあさんの息子、って分かったよ。  俺はそのクローゼットに死体を隠して、  そして逃げた。色んな場所で、色んな職業を転々としながら。  こんな話をしていいのか、って? でも、さ。佐藤くん。こういう話のつねとして、俺は適度に嘘を混ぜている。言葉を丸々と信じちゃいけないよ。絶対にばれない、って分かってるから、話してるんだ。  はは。
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