新倉薫〈切り取られた恋心 前編〉

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新倉薫〈切り取られた恋心 前編〉

 いきなりなんですけど、佐藤さんは恋をしたことありますか?  まぁ当然ですよね。これくらい生きていれば、仮に成就しなかったとしても、ひとつやふたつはするか。恋愛への興味が薄い人間は、まぁそれなりにいるでしょうけど、まったく興味のない人間のほうが少数派ですよ。興味がない、ってわざわざ公言している人間に限って、ただの振り、なんてことも多いですから。あんな言葉をまともに信じちゃだめです。  佐藤さんが好きなのは、男性ですか? それとも女性?  ごめんなさい、ごめんなさい。そんな困ったような顔はしないでください。もちろん私にだってデリケートな話題をしている意識はあります。でもいまからする話に関わってくる話なので、一応聞いておこうかな、って思っただけです。  やっぱり答えないでください。まぁ私の純粋な興味もあったんですけど、やっぱりすこし失礼でした。  佐藤さん、きみは私の昔の恋人に似てるんです。いやこの言い方は正しくないか。恋人一歩手前のひと、っていうかな。  えぇ、男性です。  あぁえっと、ちょっとややこしいんですけど、本来私が好きなのは、異性……つまり女性なんです。基本的に男性を好きになることはありません。でもこういう見た目だからか、男性に告白されることも、たぶん佐藤さんが想像している数倍くらいはあるんです。女性と間違えられて一目惚れされた、ってケースもあれば、男性と知ったうえで、それでも付き合いたいみたいな話になることもありました。  いまはそうでもないですけど、一時期は結構な男性恐怖症を持っていたこともあって。  小学校の時だったかな……あっ、前置き長いです? でも、小野寺さんも前置きはあったし、私もこれくらい許してくださいよ。  小学生くらいの時、「女子じゃないから大丈夫」っていう理屈なのか、男同士の友情なんて言って、私の身体をやけに触ってきたり、急に抱き着いてきたり、そんなことをするような男の子が一部にいて、本人たちに悪気はないんだろうけど、それがすごく気持ち悪くて。何より嫌だったのが、嫌、って言えない自分だった。私はそういう時、笑ってすませようとする人間でしたから。  それでなんとなく男子と距離を取って女子との関わりを増やすと、「男のくせに」って小馬鹿にされたり、陰口を言われたりもする。子ども、ってオブラートに包むことを知らないから、ひどいもんです。  だから私にとって、男、というのは長く近寄りがたいものだったんです。唯一許すことのできる男がいるとしたら、それは私自身だけ、みたいな感じで。  はじめて女の子と付き合ったのは、中学の時でした。恋人関係、っていうよりは、友達の延長線上にあるような関係に近くて。恋人らしいことも何もしないまま、終わりました。私たちは。  そのあとも中学、高校、大学って年を重ねる間に、何人かの女の子と付き合いました。どれも長続きしなくて。もしかしたら、恋愛自体に興味がなかったのかもしれませんね、私は。男の子から告白されることが多かったせいか、告白されるたびに、断りながら、たまにぼんやり考えるんです。  相手が女性だから、うまくいかないんじゃないか、って。  男が好きじゃないくせに、こんなことを考えてしまう自分が不思議で仕方なかった。嫌うのは興味の裏返しで、私はもしかして、ってね。でも実際に私が男性からの告白に頷くことはありませんでした。  大学三年の夏までは。  そう、それが佐藤さん、あなたに似てるんです。顔を見た瞬間、あ、って声が出そうになりましたよ。  名前も似ていて、彼は伊藤くんと言いました。  はじめて彼に会ったのは、大学の飲み会です。私、普段、あまりそういう場には顔を出さないのですが、同じゼミの子に誘われて。気乗りはしませんでしたが、熱心に来られると断れないんです。そんなに言うなら、まぁ良いかな、って。私自身、この流されるまま生きるような性格が好きじゃないんですが……。  伊藤くんも、私と同じように、飲み会の場を楽しんでいる、なんて雰囲気じゃなくて、明らかに、仕方なくって感じでした。特に会話には参加せず、ずっと相手はビールのジョッキ、みたいな。 「あまり楽しそうじゃないですね」  話しかけたのは、私から、でした。自分と同類を見つけた、と思って、嬉しくなってしまったのかもしれません。と言っても私はあまり飲まないので、彼と違ってほとんど体内にアルコールも入っていませんでしたが。 「そんなことないですよ」  彼の困ったような笑みが、いまでも記憶にはっきりと残っています。  彼は私と同じ大学の三回生で、ただ一年浪人生を挟んでいたので、私よりひとつ年上でした。物静かな文学青年みたいな雰囲気で……とか言いながら、実際の文学青年がどんな感じかなんて知らないまま抱いた第一印象なんですけど、ね。でも彼は文学部で、ドイツ文学を専攻していたみたいですから、私の目もまったく節穴ではなかったようです。好きな作家は、ベルンハルト・シュリンク、って言ってました。知ってます? 『朗読者』って小説が有名なんですけど。あっ、そう「愛を読むひと」って映画の。  場に馴染んでいなかった私たちふたりは、当然二次会には参加しませんでした。  送っていってやれよ、とその飲み会で注目を集めていた男性のひとりが、伊藤くんに言いました。彼は、伊藤くんとは知り合いで、私とは初対面のひとでした。私を女性と勘違いして、そう言ったのだ、と思います。その言葉に他意なんてなく、純粋な優しさ、だったんだろうな、と。  でもそういう優しさは私にとって、大抵迷惑になることが多いんです。だって私は男で、男と一緒にいたいと思わないんですから。で、正直に告白しなきゃ、後でトラブルになる、って分かってるから、色々考えて、やけに疲れることになる。そういう面倒事をこっちに放り投げられるわけなので、私からしたら、優しさじゃなくて、嫌がらせですよ。  でも、その時だけは違ったんです。  心の中で、もう名前も覚えていない彼に感謝していました。その時から伊藤くんに恋心を抱いていたかどうかなんて分かりません。恋愛感情だったのかもしれませんし、あるいは友人関係を築きたい、と思っていたのかもしれません。なんだか曖昧な答えに聞こえるかもしれませんが、そんなに自分自身の感情を明確に自覚しているひとのほうがすくないですよ。  たださっきも言いましたが、私は本来、男性に恋愛感情を持たない男性です。だからあの時点では、彼とのあんな未来を想像さえしていませんでした。もしかしたら友人関係として、親友になっていた、そんな世界線の私たちだってあったのかもしれません。とはいえ、ひとりの人間が生きられる世界線は、SFの世界でもない限り、たったひとつです。考えたところで、虚しくなるだけの妄想に過ぎません。 「公園、ちょっと寄っていきませんか。伊藤さん」  ふたりで歩いている途中に、ちいさな公園があって、私たちは並んで公園のベンチに座りました。清涼飲料水のメーカーのロゴが入っているそのベンチは、だいぶ傷んで、塗装はところどころ剥げていましたね。ちょっと座るのが怖いな、って思った覚えがあります。座った瞬間、みしり、って音がしましたし。 「失礼なこと聞いてもいいですか? 新倉さん」 「別に新倉くん、でもいいですよ」  探りを入れてみようと思ったんです。 「んっ。くん、ですか? もちろん全然そう呼んでも構わないのですが、僕としては、さん、のほうがしっくりきます」  彼の言葉を聞きながら、やっぱり勘違いしてるな、と思いました。いつもなら、うん、本当にいつもの私なら、ここで男性だ、と明かしていたはずです。嘘じゃないですよ。こういうのはずるずる引き延ばすほどトラブルは大きくなる、って一応は自分の経験から知っていましたから。  でも私は気付けば、こう返していました。 「じゃあ、私は伊藤くん、って呼びますね」 「じゃあ、に脈絡がないですよ」  伊藤くんがちいさく笑いました。年上だったんですけどね。なんとなくもっとフランクに話したいな、って思って。 「そう言えば、新倉さんは化粧とかしないんですか?」 「……そんなこと聞くの失礼ですよ」  言いながら、すこし罪悪感が萌しました。だってそれは、女性に、というのを暗に含めたような言葉でもありましたから。 「そうでしたね……、すみません」  私はなんとなく後ろめたさがあって、おそらく彼は自分の言葉に後悔があって、わずかな間、場が沈黙に包まれました。聞こえるのは木の葉が夜風に揺らされる音と灯りに誘われた虫の羽音だけ、なんて感じの。 「あまり好きじゃないんです、化粧とか、そういうの」  ただの嘘です。そういう習慣がない人間だった。ただそれだけの話なんです。でも私は真実を伝えなかった。 「そうなんですね……」 「それ、やめませんか?」 「それ?」 「敬語」 「年上なんですから」  彼がまた、ちいさく笑いました。 「こっちを、くん呼び、しておいて?」 「それは親愛の証です」 「そっか……、うん。分かった。あぁ後、化粧の話は悪い意味で捉えないで欲しい。ただ、えっと、うん」彼が照れくさそうな表情を浮かべました。「綺麗だな、って思って。とても」 「嬉しいです」  私は彼の肩に、頭を預けました。  この感情は変ですか。おかしい、と思いますか。女性を好きと明言しながら、男性にどう見ても恋心を抱く私を。でも私は、男性だからではなく、彼だから選んだのです。男性である前に、彼だったんです。そこには大きな違いがあります。  だけど嫌な予感はありました。  私と彼のこの恋は、嘘からはじまったものですから。  でもひとつだけ言い訳させてもらえるのなら、確かに意図的に隠した私も悪いですが、彼も鈍感過ぎると思うわけですよ。だってそこから私たちが一緒にいた時間はそれなりにあったわけで、なのにここまで気付かないものなんでしょうか。  彼はたぶん心のどこかで、気付いていたのではないか。そんなふうにも感じてしまうわけです。だけど無意識に自分に言い聞かせていた。新倉薫は女だ、と。もちろん私の勝手な想像です。  何度か会って、連絡を取り合ったりしながら、  確か何度目かのデートの帰り道で、告白されたんです。 「ちょっと考えさせてほしい」  たぶん私が女性だったなら……、いや違いますね。もしも私が最初に出会ったあの時点で、自分が男性であることを、彼に告げていたなら。そのうえでの告白だったなら、私はその言葉に頷いていた、と思います。 「そっか。分かった、待つよ」  彼が息を吐きました。  それがやけに寂し気で、その日の間、ずっと耳に残って離れなかったのを覚えています。なんで私は本当のことを言わなかったんだろう。何度も後悔しながら一週間悩んで、私は決心しました。  真実を伝えよう、と。 「私、男、なんだ」  って。  彼はまったく信じてくれませんでした。そして束の間、私たちは恋人のような関係になりました。
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