月見そば

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 ごくり、と生唾を飲んだ井口は、ふらふらとした足取りで券売機へ向かい、かけ蕎麦のボタンを押す。そして気がつけば店主に食券を渡していた。俺はいったい何をやっているんだろう。不思議な気持ちで蕎麦を待ちながら、先ほどの男性を見遣った。ふわふわと湯気の立つどんぶりには、青ねぎと蕎麦と———満月のような卵。 「月見そば美味しいですよ」  視線に気づいた中年男性が、かけそばが来たタイミングで声をかけてきた。髪がないせいか、笑顔がやけに眩しい。「俺も卵トッピングしていいですか?」井口がお金を差し出すと、店主は首を傾げながら小皿に乗った卵を渡した。  井口は湯気の立つダシに卵を落として、ズルズルと蕎麦を啜る。その身体を溶かすようなおいしさ。凍った心を崩すようなやるせなさ。喉をこするように食べると、飲み込んだ拍子に涙がこぼれる。俺は今まで何をしていたのだろう。就活の失敗をいつまでも引き摺って、周りに迷惑をかけて、うまいくいかないことを他人のせいにする、まるで駄々っ子じゃないか。  井口の涙は流れ続けていた。ヨレたトレーナーで何度も拭いても、蕎麦をかきこんでもぽたぽた落ちる。箸をもったまま俯き、声を殺した。 「泣くほど美味しかったのかな? それとも、辛いことがあったとか」  見兼ねた中年男性が柔らかな声で訊ねた。井口が慌てて顔を拭うと、「わたしでよければ聞くよ」とたたみ掛けてくる。それがスイッチだった。就活に失敗したこと。胡麻を振る仕事にやり甲斐を感じないこと。何者にもなれない自分がもどかしいこと。劣等感に苛まれ、死のうと思ったこと。
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