月見そば

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 店主の言葉を聞いた瞬間、全ての事象が繋がった気がした。そして、また溢れそうになる涙を必死に堪える。小学生を庇ったのは、多分、ヒーローに憧れていたあの人だ。 「今日が定年最後って言ってたし、そんなハレの日に馬鹿なことしないか。ああでも、正義感の強い人だったから心配だな」  井口は洗い物を再開する店主を見たあと、ぎゅっとハンチング帽を握った。誰かのために命を無駄にするのを馬鹿だと言うのなら、自ら命を断とうとしていた自分は、もっと馬鹿だ。 「まあ、同僚の見送りがしつこくて遅れてるだけだろう。会ったら渡しておくよ」  そう言って差し出された手に、井口はハンチング帽を託す。 「アダチさんに会ったら、あなたのおかげで仕事と———自分と向き合う決心がついたとお伝えください」  そう言って会釈する井口の目には、薄らと涙の膜が張っていた。ちょうどホームに電車が滑り込んでくるところだった。井口は店主に別れを告げ、最後尾に乗り込んだ。  車窓についてくる満月。  真っ黒な夜空に優しい光りが瞬いている。仕事に疲れ、ふらふらと行き交う人々を優しく照らす光り———理想と現実の狭間を彷徨い、絶望を味わいながらも、大人たちは立ち止まらない。小さな幸せをつまみながら、毎日を生きて行く。ヒーローになれなくてもいい。平凡に歳を重ねて行くのも悪くない。けれど、死ぬ間際に思い出される記憶が、優しく光るものであって欲しい。  そんなふうに思う井口の横顔は、かつてないほどに晴れやかなものだった。
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