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────ぱた、ぱた。
絶えず滴る雫の音で、雄士はふと我に返った。
自分が何故ここにいるのか、今まで何をしていたのか思い出せず、全身から冷や汗が噴き出す。
(試合はどうなったんだ……?)
汗で顔に張りついたマスクをどうにか外した雄士は、それを持った自分の手を見て目を疑った。
先程から滴り続けていたのは、自分の汗ではなかった……。
急な吐き気に襲われ、雄士は咄嗟に口元を手で覆った。
足元がおぼつかず床に膝をついたその瞬間、初めて周囲の光景が目に飛び込んできた。
「……何だ……これ……」
雄士は堪えきれず嘔吐した。
流れ落ちた胃液が眼下の血だまりに波紋を広げ、理解を超えた光景はより生々しく、より現実味を帯びていく。
顔を失った彼らは、もう誰でもない。
生前はさんざん悪事の計画をこねくり回したであろう頭蓋の中身も、まるで破裂した西瓜のようにことごとく床に散らばっている。
これは一体なんの為? 彼らは誰の為に死んだ? 何かの為なら、誰かの為なら殺してもよかった? それは自分の所為にはならない──?
「あああああああああ────‼︎」
やり場のない激情を全身で叫びながら、雄士は血だまりに崩れ落ちた。
何も考えられず、脳髄まで侵すような血の匂いに咽せることしかできずにいると、ふと数分前の自分自身が見ていたであろう光景が脳裏に蘇った。
血の海に浮かぶ無数の塊が、そこから流れ出すまだあたたかな血潮が、嗅いだことのない強烈な、いわば死の匂いを発している。
閃光弾による一時的な盲目から回復していた最後の一人は、雄士を見て言った。
「人殺し」でも「殺人兵器」でもなく、『怪物』と──。
「よかったな……やっと正体がわかって」
それを知りたいと強く願ったかつての自分に向けて呟き、雄士は泣きながら笑った。
自分自身からみても、今の自分を形容する言葉は「怪物」以外にあり得ない。
「やっとわかった……お前が死んだのは、俺の正体を知って失望したからだったんだな……」
彼女の苦しみに気づけなかったことが、自分の罪だと思っていた。
けれどその苦しみは他でもなく、自分自身が与えたものだった……。
いつしか雄士は真っ赤な床に額を打ちつけていた。地獄に堕としてくれと祈りながら、繰り返し何度も。
意識が遠のきはじめると、声が近づいてきた。
懐かしい、大好きな声だ。
「起きてください、雄士さん」
嗚咽を漏らしながら、雄士は「やめてくれ」と誰にともなく懇願した。
この期に及んで、自分に都合のいい幻想に逃げようとしている自分を許せずに。
「起きて、雄士さん」
愚かだとわかっていながら、雄士は薄っすら目蓋を開けた。
愛してやまなかった黒い瞳と目が合い、視界がにじんでいく。
「苦しめてごめん……」
美羽はじっと雄士を見つめ返したのち、微かな笑みを浮かべた。
「私を自殺の理由にするつもりですか?」
「違う! 俺が死なないと、人がたくさん死ぬんだ……怪物だから」
「まぁ」と目を丸くした美羽は、口元を隠して笑う。
その仕草や声の懐かしさにひどく胸を締めつけられ、雄士は言葉もなく、ただ彼女を見つめた。
「綺麗な怪物もいたものですね……」
そっと目尻を拭われ、雄士は思わず息を飲んだ。
幻想だとは思えないほど、彼女の指の感触をはっきりと感じる。
「怪物には怪物の役目がある……立場が逆なら、あなたは私にそう言うはずです」
ああ、と心のため息のように発したきり、雄士は言葉を失くした。
胸を支配していた濁った感情の塊が、すっと溶かされていくようだった。
「私があなたに失望するとしたら、あなたが私との約束を破った時でしょうね……」
「待ってくれ!」
雄士が頬に触れようとした瞬間、美羽の姿はふっと消えた。
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