遠きに在るものでなく、直ぐ其処の日常に 1/3

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「……あの人のこと。気になって。聞いてたんだよ。虎鉄さんに」 「あの人? 誰のこと?」  一青が言っている意味がよくわからず、翡翠は首を傾げた。 「いや、だから。あの隼人って人のこと」 「え?」  不意に出てきた名前に疑問ばかりが浮かぶ。 「……翡翠のこと散々カワイイとか言うし。や。可愛いのは間違いないんだけど。ベタベタ触るし」  そう言って、一青はようやく翡翠の顔を見た。それから、隼人が触っていた髪や頬に触れる。 「この髪も。肌も俺のなのに」  一青の言葉に一瞬。時間が止まる。それから、その意味が分かって、感情が湧き上がってくる。  恥ずかしさとか、嬉しいとか、一青が可愛いとか、愛しいとか、全部ごちゃ混ぜになって、胸がいっぱいになって溢れ出すような、大きい声で叫び出したいような、居ても立ってもいられなくなって走り出したいような、涙が零れそうな気持になった。  多分、顔は真っ赤になっていたと思う。頬が熱い。 「……なんか、我慢できなくて。でも、翡翠には知られたくねえし。あの人、どういうつもりなのかって、居ても立ってもいられなくて、虎鉄さんにどんな人なのかって聞いてた」  一青がそんなふうに思っているなんて気づかなかった。今日は妙に淡々と契約上の話をしていた気がしていた。その間もずっと、そんなことを考えてくれていたんだろうか。 「そしたら。それは、自分が応えても意味ないし、そんなこと気にするくらいなら、翡翠のそばにいてやれって言われて」  悪戯をして叱られて、しゅんとしている子供のような表情に堪らなくなって、翡翠は自分より大きなその身体を抱きしめた。 「それって……もしかしたら。ヤキモチ妬いてくれたってこと?」  そのままの格好で問いかけると、一瞬躊躇い。 「そうだよ。……ヤキモチ妬いたの。かっこわりいな」  観念したように一青は答えた。少し不貞腐れたような声。堪らなく可愛い。それから、愛おしい。 「かっこ悪くない。すごく。嬉しい」  溢れるままの気持ちを言葉にする。 「俺。大切にされてるね。それに。俺も同じだ」  顔を見上げると、一青も翡翠を見つめていた。翡翠の言った言葉の真意を探ろうとしているようにその瞳が翡翠の瞳を覗き込む。 「俺も。ヤキモチ。やいてたよ?」  きっと、そんなことを言ったら迷惑だと思っていた。今まで、大抵の相手にそういう態度をとられたから。中にはそれだけで面倒くさいと別れを切り出されたこともある。  けれど、嬉しかったのだ。  一青がその気持ちを隠さずに伝えてくれたことが翡翠にとっては嬉しかった。 「すごく親し気に話してるから。ほら、水上さんと」  だから、翡翠も隠さずに伝えることにした。 「え? 虎鉄さん? や。あの人とは……」 「わかってる」  翡翠が考えていたことなど完全に予想外という表情で、言い訳すらすべきなのか分からないと戸惑いながら、一青が言いかけた言葉を翡翠は遮った。 「別に何でもないってわかってる……っ。  けど。俺はまだ、一青のこと全然知らないのに、あの人は一青と過ごした時間がたくさんあって。一青の色んなこと知っていて。仕方ないってわかってるけど。  そういうの。羨ましくて……」  声は次第に小さくなっていった。言葉にしてみると随分と理不尽で身勝手な思いなのだと分かったからだ。 「その。一青は……俺の……? なのに」  それでも、一青が言ってくれた言葉が嬉しかったから、なけなしの勇気を振り絞って、翡翠は言った。  しん。と、一瞬、部屋が静まり返る。一青は何も言わない。  呆れているんだろうか。  翡翠が不安で押しつぶされそうになった時だった。
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