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「これを飲めば、記憶を失います。あなたが車の荷台で目覚めた時のように。そうすれば、辛かった事を全て忘れてやり直せます。クエドはあなたの出生を知り、あなたを元の人生に戻してあげたいと言っていました」 「だから何よそれ、家も両親もいないのに、どう元に戻れって言うの。記憶を消したところで変わらない、また一から盗みを覚えるだけだよ」 彼女は疲れた物言いで、小瓶を手にした。この薬は知っていた、これを飲んで組織を逃れた人間もいる。全ての記憶と引き換えに、自由を手に入れた人を見て、良いなとクエドに話した事もあった。 だけど、その時と今は違う。 ぼんやり小瓶を見つめていると、セナが小さく息を吸った気配がした。 「ならば、僕があなたを妻に迎え入れます」 「……は?」 その緊張を含んだ声に、彼女は一層の訝しみを持って呟いた。更には軽蔑すら感じられる視線を受け、セナは早くも心が折れそうだったが、それでもやましい思いはないと、懸命に言葉を紡いだ。 「全て忘れた方が楽なら、僕があなたを受け入れます!あなたはまっさらな状態で、幸せな日々を過ごせる事を約束します!」 その熱量は伝わってくるが、それでも、どうしてそんな考えに行き着くのか、彼女には理解出来なかった。昔のよしみで、共通の友がいて、その友達に託されたからといって、結婚なんて考えに至るだろうか。形式上の事だとしても、わざわざ偽装結婚までする意味が分からない。 不審に考えを巡らせていた彼女だが、やがてセナの軍服に光るバッチに目を止めると、ある考えが頭を過り、そういうことかと溜め息を吐いた。 「…あぁ、そうだね。私を使えば組織の情報が手に入るかもしれないもんね。記憶がなくても、私を囮に使えるかもしれない」 納得した様子の彼女を前に、セナはきょとんとして目を瞬き、やがて彼女の言っている事が理解出来たのか、彼は再び焦ったように身を乗り出した。 「ち、違います!僕は、あなたを使おうというつもりはありません!僕としては、どんな状態のあなたでも受け入れる覚悟です。あなたが僕を使うんです!」 その勢い余った熱心な態度に彼女は面食らい、それからまじまじと彼を見つめた。 「…あなた、本気で言ってるの?」 「そうでなければ、いくら友人の頼みとはいえ、こんな提案は持ちかけません。あなたがどんな選択をしようが、僕の望みはただひとつ。あなたをこの世界から連れ出す事です」 その真っ直ぐな物言いに、その眼差しに、彼女は返す言葉を見失った。その言葉の影にクエドがいるような気がして、そう思ってしまえば胸がじわりと熱くて、震えるようで。 クエドと共に見た夢、共に生きると誓い合った未来。クエドとは叶わなかった夢を、それでも彼は残してくれた、自分の為に。 彼女は再び小瓶を見つめた。 もう一度、夢を見て良いのだろうか。これは、クエドがくれたチャンスなのだろうか。 もう、夢は見ないと決めたのに。 彼女はきゅっと唇を引き結んだ。 だけど、この薬を飲む選択だけは出来なかった。 これで記憶を失ったら、クエドを忘れることになる。 そんな事、出来る筈がない。 「…これは、飲まない。飲んだら忘れちゃう、クエドのこと。もう、何も分からず過ごすのはこりごりだよ」 彼女は小瓶を置いた。 「…私は、今のままでいい、今の私のまま生きていきたい」 心は決まった。決心して顔を上げれば、セナはようやく安堵したように頷いた。 「クエドも、きっとそれが良いと言ってくれますよ」 だが、彼女は不安そうに表情を歪めた。 「でも、本当に組織を抜けるなんて出来ると思ってるの?」 「出来ますよ、でなければクエドに怒られます」 「…じゃあ、先ずは何をしたら良い?」 「結婚しましょう」 即座に出てきた提案に、彼女はまだ言ってるのかと溜め息を吐いた。だが、セナの決心は変わらないようだ。 「僕達が、それぞれの思惑の為に結婚したと思わせれば良いんですよ。軍の情報も少しずつ組織に流すようにすれば…勿論、あなたが僕から聞き出したとしてですよ?そうしたら、組織も少しは僕達を泳がすかもしれない。その間に、組織を抜ける為の算段を考えましょう。その方が、お互い堂々と会っていられますし」 そんなに上手く事が運ぶだろうか。彼女の不安は残ったままだが、セナの自信に満ちた顔を見ていたら、何だか出来るような気がしてくるのが不思議だった。 あの時の、クエドの瞳を見た時の感覚に近いかもしれない。人身売買の車の荷台の中で、クエドだけが立ち上がり、逃げようと、生きようと言ってくれた。あの手を取ったから、今、彼女はこうして生きている。それは間違いない、クエドが後悔することなんて何もない、寧ろ、生きる道に導いてくれた事に感謝をしなくてはならない。 彼女はセナを見上げた。いつか、この手に染み付いた罪も償えるのだろうか、その先にもし自由があったとしたら、彼は待っていてくれるのだろうか。 「決まり、という事で良いでしょうか…?」 ぼんやり考え込んでいた彼女は、不安そうにこちらを窺ってくるセナに、そっと眉を下げた。 会って間もないこの軍人に、何をそこまで期待しているのか。彼女は自分に呆れ、それには頷けず、それでも改めてセナと向き合った。 「…設定は?どこで出会った事にするの?」 だがセナは、その問いかけを合意と受け止めたようだ。彼は嬉しそうに表情を緩めた。 「あなたの踊る姿に一目惚れして、僕が強引に婚姻を取りつけた事にしましょう」 「それでいいの…?」 彼女なら、何にでも化ける事が出来る。どんな職業でも演じられるよう、様々なスキルを習得している。それに、踊り子は立場的に弱い。軍人が妻に選ぶ職業ではない。 「構いません、事実ですから」 にこりと微笑みが返ってきて、彼女は暫し彼を見つめたが、その言葉の真意は見抜けず、肩を竦めた。それを了承と取ったのか、彼は気合い十分に席を立った。
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