第2章 ただ見つめ合っただけでも罪なんですか?

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「初めまして。新人の八神千宙です」  馴染みがあまりない、男性にしては少し高めで柔らかい、澄んだ声で挨拶をした先生は、そのままちょっと不恰好な白いチョークで名前を書いた。  一本ずつ、先生の手で紡がれていく文字は、普段から見慣れいる、機械で簡単に打ち込まれるつまらない文字よりも癖があった。でも先生を表す4文字が黒板に現れた瞬間、なんて美しい文字なんだろうと心を奪われた。  きっとかかった時間は1分もなかったと思う。でも私は、先生の指先の動きから目を離すことができないでいた。  これが恋の始まりだと私が気づいた頃には、もう何もかもが後戻りできないところまできてしまったけれど、あの瞬間の空間のすべて……私以外の生徒達のざわめきも、先生のはにかんだ笑顔や笑い声も、一生忘れたくない宝物だった。  そんな先生の担当科目は古典。好きな人は好きだが嫌いな人は嫌い。そして科目が嫌いな人にとっては担当教師すら嫌いになるという鉄板は、中学の頃からずっと私は見ていた。  この先生もそうなるのだろうか?だとしたら可哀想だな。  そんなことを先生の授業中はすでに暇つぶしで内容を暗記してしまった古典の教科書を開きながら、私は考えていた。  でも、先生は違った。  古典なんか嫌いだと言っていたクラスメイト達が、何故か真剣に勉強をし始めた。  図書館にも「先生が勧めてくれた本どれだろう?」と大声でぺちゃくちゃ話しながら土足で踏み込んでくる人も増えた。  ことあるごとに、つまらない質問を授業前と後に先生を捕まえて投げつける人すらいた。  そんな人たちと、そんな人たちなんかに笑顔を振りまく先生を見るたびに、私は古典の授業が嫌いになっていった。  源氏物語も平家物語も枕草子も大好きなのに。  先生が笑顔で私以外に話しかける空間と時間を、私は激しく憎むようになっていた。  先生と直接話したことが、まだ1度もないというのに。
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