第2章 ただ見つめ合っただけでも罪なんですか?

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 先生が私の名前を、授業以外で初めて呼んだのは、中間試験が終わったばかりの6月中旬の放課後。  まだ梅雨の真っ只中で、肌寒さとじめじめ感の両方が人々を次々に不快にさせているのに、それでいて太陽は最も長く世界を照らしている、とても不思議な時期だった。  他の人たちは口を揃えて嫌いだと言っているが、私は嫌いじゃない。  全てが悪いことばかりでも、何か1つくらいは素敵なことが起きると、些細な夢を見ても許される気がしたから。  そんな私は、いつも通り窓際の、そこそこ日当たりはいいけど入口からは見えづらい席に腰掛け、物語の世界に入ろうと、読みかけの本をめくっていた。  今読んでいるのは源氏物語。ただし原文ではもちろんない。有名な小説家が翻訳したもので、さほど古語の知識が分からなくても、すらすらと読めてしまうものだった。  とはいえ、その作家の力量が素晴らしいからだろうか。  セリフ回しは現代を生きる私にとって馴染みがあるのに、地の文は眺めるだけタイムスリップしたかのように、当時の文化がありありと脳内に浮かび上がるようだった。  ちなみに読み始めたきっかけは、統一模試の問題文として桐壺の部分が使われたから。  その時は、設問に答えるので必死でほとんど内容は覚えてなかったものの、選択肢に書かれていた「廊下に糞をまいた」と答えさせる問題がずっと記憶に残っていた。  そのせいか、偶然学校の図書館で新訳版を見つけた時に、間髪入れずに手に取っていたのだ。  なんとも口にするのが躊躇われる理由ではあるが、こうして1ページめくるごとに、当時の天才が遺してくれた世界に現実を忘れて没頭させてくれるのだから、感謝している。 「今日は確かここら辺……」  指の感触で、大体ここら辺だなというのが分かったところで、ぱたりと本を広げた時だった。 「珍しいな。源氏物語を熱心に読む生徒がまだいたんだな」  背後から、あるはずもない低い声が聞こえてきて、私の心臓は止まりそうになった。 「ど、どうして……八神先生がここに……」 「池脇さんを探していたんだ。で、図書館の先生に教えてもらったというわけ」  私は、何故先生が自分を探していたのかを聞く前に、本棚の向こう側にあるカウンター席にいるであろう図書館の先生に対して、思いっきり睨みつけてしまった。  ちなみにぎっしり詰まった本に隠されていたので、例え先生が本当にそこにいたとしても、私の睨み顔なんか見えるわけはなかったのだが。
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