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「誰か来るね」
「え」
それは一大事ではあったが、二人とも慌てはしなかった。積み重ねた年季と経験は伊達じゃないのだ。
※※※
「あーもー‼︎」
十五夜の月が光る夜の街を、走る少女がいた。レモンイエローの髪をなびかせて、姫子は今日の天気に文句を言った。
「暑いのが悪いんだからー!」
実は姫子には、飲んだソーダで髪の色が変わる、という特異体質がある。しかも本人は炭酸飲料大好きときている。明日の準備が全て終わり、しかもこんな暑い日。ソーダが最高に美味しいというものだ。
だが、学校でこんな髪色は禁止されている。
※※※
「喫茶アガツマ」の前に立つ。
「CLOSE」の札がかかっているが、電気はついてて人の気配もある。姫子は勢いよくドアを開けた。
「こんばんは、マスター! ごめんなさい閉店後に!」
「こんばんは。あー…今日は暑かったもんねぇ」
吾妻マスターは状況を察し苦笑した。彼は姫子の特異体質の理解者でもある。
「明日はキミの高校、学校祭だっけ」
「そうなんです! わたし白雪姫のコスプレでジュース売るんですぅ…準備頑張ったんですぅ…」
「なら特濃コーヒーソーダで、髪の色戻さないとだね」
「はい! お願いします!」
「大丈夫、ちょうど淹れてたとこだから。座って」
マスターの言う通り、閉店後なのに店内はコーヒーの香りに溢れていた。明日の準備だろうか。
もう一つ、いつもと違うモノがあった。角のカウンターがベニヤで囲われている。しかも、マスターがいる側には小さな扉も付いていた。
『猫の玄関みたい』
扉が動いた。猫が出るかと姫子は注目したが、出たのは人の声だった。
「コーヒーソーダ、面白そうだね。私にも一杯もらえるかな」
男の人の静かな声だった。開いた空間の向こうにチラリと、象牙色のスーツが見え、扉は閉まった。
「かしこまりました」
姫子の様子を見て、吾妻マスターは付け足した。
「事情があって、人前に出られない方なんだ」
「えっ! どうして」
マスターが唇の前で人差し指を立てたので、姫子もそれ以上聞くのはやめた。ドキドキで頬が赤らむ。
『これが、お忍びというやつー⁈』
※※※
姫子が帰ってから。
「まだこんな衝立、取っておいてたのかい」
「はい。こういう時のために」
「大人になったね」
「そうでもありません」
マスターは、左額に手をやりかけて下ろした。ここにある些細なアザのせいで、母は親戚にいびられ続けて参ってしまった。母を苦しめる材料にしかならない自分に絶望して、月を見ているだけのあの頃。月にいたこの人と、目が合った。
『寿命を縮めたいなら私を見ればいい。それは簡単だけど……その前にもう少し、いろんなものに目を向けてご覧』
姿を見たのは、あの時だけ。マスターは目を閉じて、衝立を器用に畳んだ。
「貴方に救われたあの時から、あまり変わっていません」
「そうかな」
衝立の向こうから現れたのは、小柄な丸顔の中年男性。だが、その姿を見るものは誰もいない。
「コーヒーソーダも美味しかったけど、最後に温かい一杯をいただけるかな」
「よろこんで」
マスターは目を閉じたままコーヒーをいれ、男の前に置いた。男は一口飲んで微笑んだ。
「衝立を立てていた頃より腕を上げたね」
※※※
姫子は夜道を歩いていた。
髪は黒くなったものの、特濃コーヒーソーダを飲むと眠くなくなる。明日のために寝ておきたいのに。
『うーん…少し遠回りして運動しようかな…でも』
満月で明るいとはいえ夜。やはり早めに帰ろう。その時。
「失礼、先程はどうも。お嬢さん、そのままで」
背後から『お忍び』の声がして、姫子は思わず立ち止まった。後ろを向かないように全力で我慢する。
「コーヒーソーダ、なかなか刺激的でした。教えていただき感謝します」
「いっいいえ!」
「御礼と言ってはなんですが…あれだけのカフェインは、さぞかし目が冴えるでしょう。明日のために、よく眠れるおまじないを」
風が吹いた。
「月を見て」
ふい、と、背後からアイボリー色の帽子が飛ぶ。帽子はみるみる高く上がり、満月に溶けた。
「では夜道に気をつけて。おやすみなさい」
思わず振り向いたが、もう誰もいなかった。
「おやすみなさい!」
その日はぐっすり眠れたし、学校祭を全力で楽しめた。クラスのジュース売り場も大人気だった。
「マスター、あのお忍びの人に御礼言っといてください!」
「うん、今度来た時に必ず伝えるよ」
正体は聞かない。
満月に溶ける帽子が、今も目に焼きついている。
『月の精って、あんな感じなのかしら…』
月が一番見られる日にそんな人が、サボってコーヒー飲みに来てるなんてバレたら大変だろう。『お忍び』するワケだ。そう思うことにした。
思い出してはクスクス笑う姫子の前に、注文した品が置かれた。月を溶かしたような色のレモンスカッシュ。
「お待たせしました」
「やったー!」
姫子は休日の特権・色付きソーダを堪能した。
(了)
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