疑心暗鬼

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疑心暗鬼

 ここは、何処かしら?  ベッドから身体を起こしたエリザベスは、品の良い家具が置かれた室内を見回し考える。 (あの想い出の泉にハインツ様と行って、公爵家同士の婚姻がどうとか……) 「――えっ!?」  唐突に思い出した泉での出来事に愕然とする。黒髪黒目のハインツと、あの金色の少年が同一人物だったなんて、エリザベスは想像もしていなかった。 (陽の光を受けて髪が金色に見えていたなんて、幼い頃の記憶はあてにならないわ)  しかも、その初恋の君をウィリアムと思い込み、突っ走った過去のエリザベスは間抜けでしかない。真相を知ってしまえば、あんなにもウィリアムに固執していた自分は何だったのか馬鹿らしくもある。 (ある種の意地みたいなものだったのかしらね……)  エリザベスを助けてくれた初恋の君が裏切るはずがないと。そう思わなければ、初恋の君を忘れられないエリザベスの幼い心は守れなかったのだろう。  あまりにも過去の記憶を美化し過ぎていた事の弊害か、恋は盲目とはよく言ったものだ。  こうして、過去の自分を客観視出来るようになっただけでも、ハインツには感謝しなければならないのかもしれない。  ただ、初恋の君がハインツと分かったからと言って、ウィリアムと同様に愛せるかと言うとそうではない。 (私の初恋は、ウィリアム様に裏切られた時に終わったのよ) 「エリザベス、目を覚ましましたか?」 「えぇ。私、泉に落ちたのね」 「そうです。少々、追いつめ過ぎました」 「よく言うわよ。ただ、命を助けられた事には代わりないわね。今も昔も」 「エリザベス、思い出したのですね!」 「えぇ、全て。泉に落ちた幼い私を助けてくれたのはハインツ様でしたのね」  ベッドの縁へと駆け寄り手を取ったハインツの笑みを見て、エリザベスの心臓が跳ね上がる。いつもの皮肉を滲ませた笑みではない、まるで喜びが心の底から溢れ出したような笑み。そんな笑顔見たことなかった。跳ね上がった心臓が、トクトクと高鳴る。 「やっとだ……やっと……。エリザベス、貴方がウィリアム王子の手を取るたび、身が切られる思いでした。何度、貴方を助けたのは私だと叫びたかったことか。何度、貴方の初恋の相手は私だと叫びたかったか」  ずっと昔から想いを寄せてくれていたとも取れる発言に、エリザベスの高鳴り出した心臓がさらに速度を増していく。  ただ、どこかが引っかかる。夜会で接して来た彼とは違う顔を見せるハインツ。  高揚していく心とは裏腹に、冷静になれと頭の中で警鐘が鳴り響く。彼は、あのハインツ・シュバイン公爵子息なのだ。ハインツの政治的手腕は、政治に興味のない貴族令嬢の間でさえ噂になるほど有名だ。目的のためならば手段を選ばず。利のためなら非道な事だろうと平気で行うと噂されている。だからこそ、あの若さで次期宰相候補と名高いのだが。  そんな男が、愛だの恋だのと言っている事自体、違和感でしかない。甘い言葉で惑わし、相手を思い通りに操る。それこそ、彼の本質ではないのか?  疑心暗鬼の疑問符が頭の中をクルクルと回る。 「ハインツ様は、私の初恋の君が泉で命を救ってくれた少年だとなぜ知っているのですか?」 「ふふ、エリザベスの事なら何でも知っていますよ。好きな花や小物、御用達のドレスショップやジュエリーショップ。よく通う菓子店やレストラン。あげたらキリがありませんね。もちろん交友関係や今まで師事されてきた先生方にいたるまで把握しているつもりです」  そんな事を聞きたいのではない。今、ハインツが言っている事は、調べようと思えば誰でも調べられる事柄にすぎない。エリザベスが言いたいのは、初恋の君の事だ。  幼少期に命を救ってくれた少年が初恋の君だと、エリザベスは親しい友人にしか話していない。それも、極々限られた友人にのみだ。 「私が聞いているのは、そんな事ではありません。親しい友人にしか話していない初恋の君の事を、なぜ貴方が知っているのか聞きたいのです!」 「あぁ、そんな些末な事ですか。簡単な話ですよ。エリザベスの周りの友人達は、私と繋がりが深い者達ばかりだからです。不思議に思ったことはありませんでしたか? 第二王子の婚約者なのに、周りの友人の多くが王太子派の貴族令嬢ばかりだと言うことに」  気づかない筈がない。エリザベスは何度も不思議に感じていた。第二王子の婚約者なのに、周りの友人令嬢は王太子派か中立派。徹底して第二王子派を排除したような状況にずっと違和感を感じていた。  ただ、そんな状況を作り出した張本人は、ウィリアムだとエリザベスは思っていたのだ。彼に煙たがられている自覚だけは、ずっとあった。だからこそ、エリザベスを孤立させるためウィリアムが仕組んだ事だと考えていたのだ。 (私が親友だと思っていたアイリス様やミランダ様は、偽りだったの……)    悲しみで胸が張り裂けそうに痛い。 「では、ミランダ様もアイリス様も貴方の指示で、私に近づいたと言う事でしょうか?」 「もし、そうだと言ったら貴方はどうしますか? 彼女達との縁を切りますか?」  ミランダ様とアイリス様と縁を切る……  彼女達との想い出の日々がエリザベスの脳裏をめぐる。  初めて彼女達と出会ったのはいつだったか。出会いが遠い昔に感じられるほど、濃い時間を二人と一緒に過ごして来た。彼女達が居たからこそ、ウィリアムからの仕打ちに耐えられたと言っても過言ではない。  夜会で一人、エリザベスが残されるたび、さりげなく側に寄り添ってくれたのも彼女達だった。決して、ウィリアムへのエリザベスの想いを否定することはせず、何度も話を聞いてくれた。彼の女癖の悪さを知らなかった訳ではない。ただ、それを知ったからと言って、止められるような想いではなかった。それを否定せず受け入れて寄り添ってくれるだけでエリザベスの心は救われた。 「ハインツ様の指示で彼女達が私に近づいたのだとしても、縁を切る訳ないじゃない。彼女達と過ごして来た日々の中、築き上げた信頼関係は偽りではないわ。たとえ貴方が私と縁を切れとお二人に言ったとしても、断固拒否されるでしょうね。お二人のパートナーに何を言われようと、絶対にね。女の友情を甘く見ないでちょうだい!」 「エリザベスなら、そう言うと思っていました。確かに、貴方に近づくようにルイからアイリス夫人へ圧力をかけた事はありましたが、きっぱり断られましたね。もちろん、彼女達と私は直接的に繋がってはいませんよ。パートナーの友人という立ち位置でしかありません。だから、貴方の情報を彼女達から得ることは不可能です。ただ、情報というのは、やりようによってはいくらでも手に入れることが出来るものなのです。特に、長年エリザベスの情報を隈なく追っていれば尚更ね」  くくく、と笑いながら(うそぶ)くハインツの狂気を垣間見ているようで落ち着かない。自分の全てを握られているかもしれないという恐怖がエリザベスの喉元を締め付ける。ハインツの存在感に飲まれたエリザベスに、虚勢を張る気力はもう残っていなかった。 「さて……、貴方の初恋の君が誰かわかったところで、本題に入りましょうか。これで何の憂いもなく、私の婚約者になれますね、エリザベス」 「じょ、冗談言わないで! どうして、貴方の婚約者にならないといけないのよ」 「どうして? おかしいですね。貴方は、初恋の君と結婚したかったのでしょう。初恋の君が私とわかったのだから、婚約者が私になるのは必然ではありませんか」 「違うわ! そんなのおかしいわ。初恋の君が貴方だとわかったからと言って、恋心がハインツ様に移るわけじゃない。私の初恋はウィリアム様に婚約破棄を言い渡された時に終わったの。たとえ、貴方が私の初恋の君だったとしても、それは過去の話。今の私の心にハインツ様はいないの」  そう、エリザベスの初恋は終わったのだ。 「ウィリアム……本当、目障りな男だ。くく、くくく……貴方の心に私はいないのですか。それは、傑作だ……」  目元に手を当て心底おかしいとでも言うように笑うハインツを見つめるエリアベス頭の中では、警鐘音がガンガンと鳴り響く。今すぐに逃げ出さなければ、逃げられなくなる。そんな忠告の言葉が頭の中をクルクルと回るが、体が動かない。 「貴方の心に私がいないのであれば、一生忘れないように刻み込めば良いだけの話だ」  トンっと肩を押され、見上げた先に見たハインツの顔をエリザベスは一生忘れないだろう。あの泣きそうな顔を……    
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