ハインツ視点

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ハインツ視点

 やっとだ。やっと手に入れた。  隣で泥のように眠るエリザベスを見つめ、長年の恋が叶った喜びにハインツは浸る。  苦節十五年、この時を迎えるための努力は惜しまなかった。ただ、努力だけでは、叶わぬ夢もあると知った。 (何度、エリザベスをあきらめようと思ったか)  その度に思い知らされる執着とも呼べる自分の想いの深さに絶望した。 (なぜ、こんなにも愛してしまったのだろうか……)  エリザベスとの衝撃的な出会いがハインツの全てを変えた。  十五年前、当時すでに王太子殿下の学友だったハインツは、将来の側近候補として王宮で彼と共に勉学に励んでいた。  そんな中、公爵家の嫡男として、また王太子殿下の側近候補として、同じ年頃の令嬢を持つ貴族家からのハインツへのアプローチが激しさを増していた。  まだ、王太子殿下の妃候補ですら決まっていない現状で、日々過激さを増していく令嬢同士の醜い争いとその親達からの圧力。さらに悪いことに、当時のシュバイン公爵家の立ち位置も、その争いに油を注ぐ結果を招いた。  当時のシュバイン公爵家は、公爵家とは名ばかりのお飾り公爵家と言われていた。政治の場に滅多に出てくることはないシュバイン公爵家当主。本来であれば、貴族家の当主は、王都のタウンハウスを拠点にし、領地は別の者に任せるのが常だった。  公爵家の当主であれば、政治の根幹を担う重要な役職に就いている。だからこそ、王都での生活は必須となる。しかし、芸術肌で政治に関わるのを極端に嫌ったシュバイン公爵は領地へと引っ込み、王都にすら滅多に出てこない有様だった。  そんな当主を持つシュバイン公爵家に政治での発言権があるはずもなく、他の貴族家からも軽視されていた。その結果、シュバイン公爵家の息子なら簡単に婚約にこぎ着けるだろうと考えた欲深い貴族家からの圧力が強まった。  日々増え続ける婚約打診の手紙に辟易したシュバイン公爵は、とうとうハインツを領地へ呼び戻すことを決め、ハインツもまた、嬉々としてそれを受け入れた。  領地での日々は、王宮での生活では考えられないくらい穏やかなものだった。  愛馬で領地を駆け、泉で魚を釣る日もあれば、私室で読書に没頭し、いつの間にか日が暮れていた事もあった。虎視眈々とハインツを狙う令嬢達の相手をする必要もなく、王太子殿下の側近候補として緊張を強いられる事もない。  のんびりと時間が過ぎていく。  そんな穏やかな日々に、本気で王都に戻りたくないと考え始めた頃、ハインツとエリザベスは出会ったのだ。  あの日も従者を一人つけ、昼寝目的でハインツはあの泉に来ていた。  森の中にある泉は、木陰が多く、人間はおろか、動物すらめったに来ない昼寝をするには最適な場所だった。  お気に入りの大木に背を預け、ぼんやりと泉をハインツが見ていると、対岸に幼い少女が突然現れた。  滅多にこの泉で人に出くわした事がなかったハインツは、無意識に少女の行動を目で追っていたのだ。  真っ直ぐと泉へと向かい歩く少女に、内心焦り出す。ハインツはあたりを見回すが、大人らしき付き人は見当たらない。嫌な予感に背を押され、ハインツは対岸へと駆け出していた。  ドボンっという音と共に、少女が泉へと落ちる。  気づいた時には、泉へと飛び込んでいた。  沈みゆく少女に必死に手を伸ばし、なんとか服を掴む。そして、遅れて泉へと飛び込んだ従者の手も借り、地上へと連れ戻すことに成功した訳だが、それからがひどかった。  意識が戻った少女は、何を話しかけても無反応だった。確かに意識は戻っているはずなのに、何も映さない瞳。終いにはハインツの存在すらいないかのように、何度も泉へと向かおうとする。  助けた命を粗末に扱う行動に怒り、手を挙げていた。  あの時、少女に何を言ったかは覚えていない。ただ、叩かれて赤く腫れた頬に手を当て、こちらを見つめる彼女に心を奪われた。  誰も映すことのなかった瞳に、自分が映った時、ハインツは少女に恋をした。  少女との衝撃的な出会いから、ハインツは何度も泉に通ったが、再び彼女と巡り合う事はなかった。  少女に会えない焦燥感に突き動かされ、あの少女の身元を探り始めたハインツは、対岸のベイカー公爵領に住む『感情のないお姫様』の噂を知ることとなる。  その噂を聞き確信したのだ。感情のないお姫様こそ、あの少女だと。  まさか、貴族令嬢だとは思わなかった。従者もつけず貴族令嬢が一人で泉に来るなど、本来であれば有り得ない話だ。だからこそ、ずっと町娘を探していたのだが、貴族令嬢であったなら見つかるはずない。  ただ、あの少女が貴族令嬢であるなら話は早い。しかも幸運なことに、ハインツはシュバイン公爵家の嫡男だ。相手が、公爵令嬢であろうと、婚約打診を無碍には出来ない。  喜びに打ち震えていたあの時のハインツは、まだ知らなかったのだ。公爵家同士の結婚が不可能であることを。  何度、公爵家嫡男の立場を呪ったことか。  何の力も持たないシュバイン公爵家を呪ったことか。  ただ、エリザベスへの想いを捨て去る選択だけは出来なかった。  この十五年でやれることはやった。  王太子殿下の学友から、側近へと昇りつめ、彼の右腕と呼ばれる立ち位置も確立した今、お飾りと揶揄されたシュバイン公爵家はもういない。政治の場で絶対的な発言権を持つ公爵家へと変貌を遂げるまでに成長させたのだ。しかし、公爵家同士の結婚を可能にする方法だけは、どんなに手を尽くしても見つけることは出来なかった。 (あの時の絶望があったからこそ、正攻法だけでは夢を叶えることなど出来ないと知ったのかもしれないな)  エリザベスと快楽主義のウィリアム王子の婚約がハインツを悪へと落とした。  我が物顔でエリザベスの手を取るウィリアムを何度殺そうと思ったことか。エリザベスは私のものだと叫びたいのを必死に堪えてきた。この婚約が将来エリザベスと結ばれるための駒になると気づかなければ狂っていたかもしれない。  いいや、もう狂っているな。  エリザベスとウィリアム王子の婚約破棄が成立した今、あと少しで、全てを手に入れることができる。その布石は全て打ってきた。 (辛い思いをさせたが、エリザベスを貶める噂も広まった。あとは、嵌めるだけ……)  ウィリアム王子、あと少し私の掌の上で踊らせてあげますよ。 「エリザベス、愛している……」  この想いは眠るエリザベスには、まだ届かない。 「貴方が悪いのですよ。私の事など心に無いなどと可愛くない事を言うから、少々ひどくしてしまいました」  昨晩のエリザベスの痴態を思い出したハインツの顔に笑みが浮かぶ。  慣れない快楽に本気で泣くエリザベスに、嗜虐心が湧きあがったなどと言ったら、もっと嫌われてしまうな。  快楽主義のウィリアム王子の婚約者をエリザベスは十年もしていたのだ。手を出されている可能性も覚悟していたが、あの初心な反応は、嬉しい誤算だった。  キスですら、顔を真っ赤に染めていた。ウィリアム王子はエリザベスに手を出さなかったと見て間違いないだろう。 (薄幸女性にしか欲情しない変態で、本当によかったよ。その女性達のほとんどが、不幸せを装っていたとは、あの馬鹿王子は気づきもしないだろうがな)  もしウィリアム王子が、エリザベスの美しさに気づいていたら、あっという間に喰われていただろう。 「真っ新なエリザベスを手に入れることが出来た点だけは、あの馬鹿王子に感謝してやっても良いか」  汗で髪が乱れていようとも、美しさを損なわないエリザベスの相貌を見つめ、ため息をこぼす。  月のように輝く銀色の髪を撫でながら、吸い込まれそうなほど青く澄んだ瞳を想い出す。  あの瞳に自分が映った時の高揚感は一生忘れないだろう。 「クチュ……」   静かな部屋に淫雛なリップ音が響き、消えていった。
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