理解者

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「くくく、心底不本意という顔をしていますね」 「いいえ、そんな事はございません!」  シュバイン公爵邸のタウンハウスは、王都にありながら広大な森林に囲まれている。王宮からわずか数十分のところに居を構えていながら、周囲の視線を遮断できる森まで有しているシュバイン公爵家の財力はベイカー公爵家を凌ぐほどかもしれない。  そう考えながら、あたりを見回していたエリザベスにハインツが声をかける。 「そうですか? ここに着いてからずっとソワソワしているでしょ」 「それは、そうですよ。一応これでも未婚の女性ですし、結婚前に何かあれば、父に顔むけ出来ないと申しますか……」  尻窄まりになっていく言葉に、徐々に赤くなる頬。これでは、ここで何か起こることを期待しているようではないか。 「例えば、こんな事ですか?」  そう言ったハインツに、木陰に敷いたブランケットの上へと押し倒されたエリザベスの口からひきつった悲鳴が漏れる。 「お、おやめください!!」 「どうして? エリザベスとは、もっとすごい事をした仲じゃありませんか。シュバイン公爵領で……」  耳元で囁かれた言葉に、あの夜の淫らな行為を想い出し、エリザベスの全身がカッと熱くなった。 「……それに、タウンハウスには私と出来た使用人しかおりません。ここで何が起ころうとも、気づかれることはありませんよ」  本気でマズイのではなくって?  自身の置かれている状況を急速に理解したエリザベスの顔が青ざめる。  執事に軽食とお茶のポットを入れたバスケットを渡されたときに気付けばよかった。  エリザベスは遠くに見える邸宅を見つめ、今やっとハインツに、はめられた事を理解した。  周囲からの視線を遮断する森の中と言うことは、この森の中で何が行われても周りからは見えないと言うことだ。しかも邸宅が離れていれば、叫んだところで気づかれることもない。  一気に迫った貞操の危機に、逃げ出したくとも組み敷かれている状況ではどうすることも出来ない。 「ハハハ、ハインツ様! 早まってはいけません。私達、婚約したばかりですし、節度を持った交流を――」 「節度を持った交流とは、こう言うことですね」 「ま、待って――」  拒絶の言葉を奪うように塞がれた唇に、エリザベスの思考が停止する。  動きを止めたエリザベスに気を良くしたのか、驚きでわずかに開いた唇をこじ開け、ハインツの舌が口内へと侵入してくる。  歯列をなぞり、口腔内を縦横無尽に動き回る舌に翻弄され、唾液ごと吸い上げられる。ジュルっと響いた淫雛な音にも耳を犯され、エリザベスの頭は酩酊していった。 「本当、可愛い……、頬が上気して、瞳を濡らして。私とのキスは、そんなに美味しかったですか?」 「へっ? 美味しかった?」 「だって、そうでしょう。物欲しそうな顔をしている。足りなかったの?」  物足りなかった?って…… 「そんな訳、あるかぁぁぁぁ!!!!」  渾身の力を込め、ハインツの胸を押せば、すぐに重みは消え去った。  さっきまで、何度押してもびくともしなかったハインツの身体の重みが急に消えた事でかえって拍子抜けしてしまう。ただ、このまま転がっている訳にはいかない。  慌てて起き上がったエリザベスは、文句を言ってやろうと背後を振り返ると、そこには目を細めて幸せそうに笑うハインツがいた。  なんて顔して笑うのよ。これでは、怒るに怒れないじゃない。 「ハインツ様、私を揶揄いましたわね?」 「バレましたか。あわよくばとも思っていましたが、エリザベスには敵わないな」  嘘ばっかり。あのまま事を進めようとは思っていなかったくせに……     まるで続きを期待しているかのような展開にエリザベスの頬が赤に染まった。  いつの間にか、ハインツに毒されていた事に気づくが、それを嫌だとは思っていない自分がいる。  離れてしまったハインツとの距離に寂しさを感じ、エリザベスは苦笑をこぼした。  このままでは変なことを口走ってしまいそうだわ。話題を変えた方がいいわね。 「そう言えば、ハインツ様はなぜあんなにお強いの?」 「くくく……これまた、唐突な質問ですね」 「そ、そうかしら。剣技会の後ですもの、純粋な疑問でしてよ。他意はございませんわ」 「ふふふ、そう言うことにしておきましょう。これ以上追い詰めて嫌われたら元も子もない。剣技の話ですか。自分では強いと感じたことは一度もありませんけど」 「でも、ルイ様と剣の腕は互角だとか。お強いではありませんか」 「確かにルイと剣の腕は互角と言われていますね。ただ、私の剣は自己流といいますか、騎士として訓練を積んでいるルイの剣筋は正統派なのですよ。だからこそ、私とは相性が悪い。私の剣筋は独特ですから、正統派の騎士では動きを予想するのが難しいだけですよ」 「そんなものでしょうか? でも、毎日剣の鍛錬を行っているルイ様と対等に戦うには、並大抵の努力では難しいのではありませんの。ハインツ様のお仕事は、王太子殿下の補佐。剣の鍛錬の時間を作るのも難しいはずですわ。でも、それを熟している。常人にできることではありません」  隣に座るハインツの手を取り、エリザベスは彼の手のひらをさする。 「ほら、努力をしている手だわ」  ゴツゴツした手。どれくらいの努力をしたら、こんな手になるのだろうか? 「なぜ、そうまでして、剣の腕を磨かれたのですか?」 「エリザベスには本当に敵わない。出来る事なら気づいてほしくなかったな」 「どうしてですか? 本気で努力をして来た事は、どんな事でも賞賛に値します。ほめられて当然なのです」  過去、ウィリアムの婚約者として、将来王子妃となり、彼を支えるための努力をエリザベスが惜しむことはなかった。  宮殿での妃教育は苛烈を極め、教師陣の厳しさに根を上げそうになる自分を叱咤し、所作や知識を詰め込み、完璧な令嬢になるため努力した。すべては、愛するウィリアムのために。ただ、その努力が報われることはなかった。  どんなに努力をしても、完璧な所作を身につけ、誰にも負けない知識を身につけても、ウィリアムから返ってくる言葉は辛辣なものばかり。  認められない努力ほど虚しいものはない。その事を、エリザベスは身にしみて感じていた。  だからこそ、ハインツは称賛されて然るべきなのだ。 「そうですね。誰よりも努力を重ねてきたエリザベスだからこそ、そう思うのでしょうね」 「ハインツ様は、ご存じだったのですか?」  私の努力を…… 「貴方の事は何でも知っていると言いましたでしょう。厳しい妃教育に、物陰で泣いていたのも知っていますよ。目を真っ赤に腫らしても、決して弱音を吐くことはなかったですよね。貴方の努力こそ、称賛に値するものです」  涙が溢れて、止まらなくなる。  ずっと誰かに認めてもらいたかった。自分の努力は無駄ではなかったと…… 「そんなエリザベスを守りたかったのですよ。誰かの手を借りるのではなく、自分の手でね。貴方を守る努力を、私が惜しむわけないじゃないですか」  もう誤魔化す事など出来なかった。  心の隙間を埋めていく暖かな言葉の数々。こんなにも自分を理解し、そばに寄り添ってくれる人、他にいない。  溢れ出した思いのまま、エリザベスはハインツの胸へと飛び込む。  心の赴くまま…… 「ハインツ様、どうか私を奪ってください。もう一人はいや……」  ハインツの頬を両手で包み、エリザベスは自らの意思で唇を重ねた。
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