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負い目
「失礼致します。お話よろしいですか?」
背後からかけられた声に振り向けば、そこには赤髪の青年が立っていた。
「えっと……申し訳ありません。私、少し一人になりたくて」
やっと、嫌味の応酬が続く女の闘いから逃げ出せたのに、男の相手などする気はない。しかも、目の前に立つ男が誰なのかもわからない。何となく見覚えがあるから、どこかの夜会で見かけた事はあるのかもしれないが。
「そうでしたか。失礼致しました」
これで引いてくれれば良いが……
物分かりの良い返事をした男だったが、その場から立ち去る気配はない。しかも、さらに距離を詰めてくるあたり、大人しく退散する気はないようだ。面倒くさい事になるなと諦めの境地でエリザベスは小さくため息をつく。
ただ、見知らぬ男の義理に応える必要もない。
(さっさと、私がこの場を去ればいいのよね)
邪険にされてなお、赤髪の男も追っては来ないだろう。
「では、失礼させて頂きますね」
「エリザベス様、本当によろしいのですか? 婚約者のハインツ様に関する事でお話がと言っても立ち去りますか?」
赤髪の男の言葉に、踏み出そうとしていたエリザベスの足が止まる。
「ハインツ様に関する事?」
「えぇ、そうです。エリザベス様の婚約者様に関する事です」
胡散臭い事この上ない。この男は、ハインツの名を出せば、無碍にも出来ないだろうと思っているのだろうか。
「申し訳ありませんが、見知らぬ方からハインツ様の事を聞きたいとは思いませんわ」
「そうですか。その話が、今エリザベス様の心を惑わせている例の噂話に関する事だとしてもですか?」
「例の噂? いったい何の事でしょう。どんな噂が流れていようとも、心配事があるならハインツ様に直接聞きますわ」
「ハインツ様が足繁く通っているというシスターの事でもですか?」
「……」
例の噂と言われた時から、ハインツが通っていると噂のシスターの話ではとエリザベスは思っていた。しかし、いざそう言われると、無視することも出来なくなる。
(あの噂をわざわざ人気のないこんな場所で、私を呼び止めてまで話そうとしている男の意図は何なの?)
真偽はわからないが、あの噂に関する新しい情報を持っているのは確かだ。
「貴方様が、持っている情報を私に与える代わりに、何の見返りをお求めで?」
「くくく、見返りだなんて……。まぁ、強いて言うなら、ハインツ様と結婚された暁には、私が王太子派へ加入出来るように便宜を図って頂きたい」
「ふふふ、おかしな事を仰るのね。王太子妃様主催のお茶会に参加されている時点で、貴方様も王太子派ではありませんの」
「違いますよ。エリザベス様に会うためだけに、伝手を使い参加しただけですから」
私に会うためだけに参加したですって? 赤髪の男は自分の言動の不自然さに気づいているのだろうか。それとも、気づいている上で私を煽っているのか。
「伝手がおありなら、わざわざ私を利用しなくとも良いのではありませんの。その方が、楽でしょうに」
「それでは無意味ですからね。私はね、その他大勢の王太子派貴族になりたいわけではない。より、王太子殿下に近い立ち位置の王太子派貴族になりたいのです」
つまりは、王太子派の中でも発言権を持つ立ち位置を望んでいるのか。だからこそ、王太子派筆頭のシュバイン公爵家に取り入りたいと。なんて、権力欲の強い男だろう。
そんな男の戯言に耳を傾けて良い筈はない。
キッパリと断りの言葉を言おうとした時、赤髪の男が続けて言った言葉にエリザベスの心が揺れた。
「エリザベス様にとっても悪い話ではない筈ですよ。未だに、ウィリアム殿下の婚約者であった事を負い目に感じているのではございませんか?」
「そんな、事は……」
次の言葉が続かなかった。
ウィリアムの婚約者であった事に負い目がないかと言われると、そうではない。
王太子派の大多数の貴族のエリザベスを見る目は、第二王子派から鞍替えをし、ハインツに上手く取り入った女という印象だろう。そんな女が、王太子派筆頭のシュバイン公爵家へ嫁入りすること自体、許せないと感じている女性陣は多い。その事を、今回のお茶会でエリザベスはヒシヒシと感じていた。
「エリザベス様のお気持ちは痛いほどわかりますよ。何しろ、我が家は第二王子派でも主要な貴族家ですから。マレイユ伯爵家と言えばお分かりになりますか?」
マレイユ伯爵家。確かに、第二王子派でも重要な立ち位置の貴族家ではある。では、赤髪の男はマレイユ伯爵家の関係者、もしくは息子なのか? 確か、マレイユ伯爵には息子がひとり居たはずだ。
「貴方は、マレイユ伯爵のご子息ですの?」
「ふふふ、そうですよ。レオナルド・マレイユと申します。以後、お見知り置きを」
「そうですか……。では、マレイユ伯爵家は王太子派へ鞍替えするおつもりがあると言うことですね」
「いいえ、違います。お恥ずかしい話ですが、父は未だに第二王子派に幻想を抱いておりましてね。エリザベス様とハインツ様の婚約が発表されて、中立派だったベイカー公爵家が王太子派へ付くことは確実でしょう。第二王子派の未来はお先真っ暗です。だからこそ、離脱する動きが、もうすでにある。それなのに、父は第二王子派を離れようとしません。生い先短い父が自滅するのは勝手ですが、私まで被害を被るのは避けたい。しかし、第二王子派と深い繋がりを持つ私を、そう簡単には王太子派の皆様は受け入れてはくれないでしょう。エリザベス様と同じように」
第二王子派と深い繋がりを持つ貴族が、王太子派へ鞍替えするには、影響力を持つ人物の口添えが必要となる。だからこそ、レオナルドはエリザベスに近づいた。
エリザベスを使い、ハインツに取り入るために。
「エリザベス様にとっても悪い話ではない筈です。もし、私の持っている情報で、ハインツ様がよりエリザベス様を愛するようになれば、王太子派の女性陣を黙らせることも可能なのではないですか? しかも、私と手を組めば、第二王子派の情報も手に入る。追いつめられた第二王子派の今後の動きは、王太子派にとっても有用だ。ハインツ様のお役にも立てる。エリザベス様が感じている負い目も払拭出来るのではありませんか?」
耳を貸すなという声が聴こえてる。ハインツを信じるのだと……
しかし、悪魔のささやきが耳へと入り、心の奥底を暗く染めていく。
「エリザベス様、もし手を組む気になりましたらこちらに連絡を」
レオナルドがエリザベスに一枚の紙を渡し、去っていく。
手元に残った手紙を見つめ時間だけが過ぎていく。とうとうエリザベスは、その手紙を捨てる事が出来なかった。
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