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蜘蛛に魅入られた蝶
「お嬢さま、落ち着かれましたか?」
泣き続けてどれくらいの時間が経っただろうか。
ひとしきり泣いて落ち着きを取り戻したエリザベスはようやくミリアの胸から顔をあげた。
「ミリア、ごめんなさい。私の浅はかな行動で危険に晒してしまって」
ミリアから少し距離を取ったエリザベスは深々と頭を下げる。
命を落としてもおかしくない状況だったのだ。自分のわがままで、色々な人の命を危険に晒してしまった。護衛の騎士に、御者に……、皆は無事なのだろうか?
頭をよぎった不安に、慌てて辺りを見回したエリザベスは違和感に気づいた。
数十名の白い隊服を着た男達が、思い思いの場所で座ったり、木にもたれながら和気あいあいと歓談する中、見覚えのある護衛騎士達もまた、その輪の中に加わっている。しかも彼らの着ている白の隊服には見覚えがある。てっきり賊だと思っていた者達はそうではなかったようだ。
「えっと……、状況がよくつかめないのだけど、私たち助かったのよね?」
「えぇ、不本意ですが助かったようです」
「不本意とはなんですか、不本意とは!」
ミリアの背後から突然響いた不満げな声にエリザベスは慌てて上を向く。するとそこには、上着のボタンをきっちりと締め、白い隊服を一分の隙もなく着こなした男が立っていた。アッシュグレイの短髪に、紫色の瞳を持つ美丈夫は、不満げな視線をミリアに投げている。
(彼はいったい誰なの?)
そんなエリザベスの疑問はすぐに解決されることとなる。
「エリザベス・ベイカー公爵令嬢様、ごあいさつが遅れまして申し訳ございません。私は、王城取締官所属の騎士隊の隊長を任されているミハエル・ルーザーという者です」
「王城取締官?」
「はい。王城取締官とは、貴族が関わる事件や犯罪を取締り、捜査する権限を与えられている部署になります。こちらを見て頂ければ信用下さると思いますが」
ミハエルと名乗った男からエリザベスへと手渡された指輪には、王家の紋章と取締官を表す十字に交わった剣が刻まれていた。
「確かに、この指輪にある王家の紋章は偽装できるものではありません。それに、聴いたことがあります。十字に交わった剣をシンボルに掲げる騎士団があると。あなた方の事だったのですね」
「さすがベイカー公爵家のご令嬢だ。ご存知でしたか」
そう言って笑う男の顔は、なんだか嬉しそうにも見える。
(騎士団の仕事に誇りを持っているのね)
エリザベスはゆっくりと立ち上がりドレスについた汚れを手で払うと、深々と頭を下げる。
「命を助けてもらい本当にありがとうございました。騎士団の皆さまが偶然通らなければ私たち皆、命を落としていたことでしょう。心から感謝いたします。こんな辺鄙な地で出会えるなんて奇跡としか言いようがない。このお礼はいつか必ず――」
「偶然なものですか! お嬢さまは人が良すぎます。こんな辺鄙な所に、王宮所属の騎士団なんて普通来ませんよ。ミハエル、さっさと白状しなさい。誰の指図で来たの!」
二人のやり取りを聞きながらエリザベスの頭に疑問符が浮かぶ。
「ミリアとミハエル様は知り合いなの?」
「知り合い!? こんな奴、もう知り合いでもなんでもないですよ。私のことを振り回しやがって! どうせ奴の指図なんでしょうけど」
「ミリア、まだ怒っているのか。今朝の事」
「怒るに決まっているでしょ! どこの世界に、家にネズミが出たと呼び出すバカがいるのよ。おかげで、大切なお嬢さまに出し抜かれる所だったのよ。ネズミくらい自分でどうにかしなさい!」
「いいや、あれは無理だろう。あんなにデカいネズミ、素手で捕まえられる女なんてミリアしかいない。今朝は助かった」
「――えっと……、ちょっといいかしら? 貴方とミハエル様の関係は?」
「出来の悪い従兄弟です!」
「えっ……、貴方がルーザー子爵家の泣き虫ミハエル!」
「はっ? 泣き虫……、なんだその不名誉な呼び名は……」
「本当のことでしょ。今だにネズミ如きに大騒ぎして、馬鹿じゃないの」
「なっ!?」
喧々轟々と言い合いを続ける二人を見つめ、以前ミリアが言っていたことを思い出した。
数年前、新設された王城取締官の隊長に従兄弟が抜擢されたと、嬉しそうに語っていた彼女の姿がエリザベスの脳裏に浮かぶ。
その話を聞いた時、単純に驚いた。
新設された部署とはいえ、子爵家の息子が騎士団の隊長に選出されるなど異例中の異例だ。もちろんミハエルの能力を疑っている訳ではない。数年間、隊長の任を続けて来たのだ。彼の優秀さに疑いの余地はない。
ただ、優秀なだけでは出世出来ないのが階級社会というものだ。裏を返せば、ミハエルの隊長就任には何らかの力が作用していたとも言える。
「ミハエル様、王城取締官のトップはハインツ様ですね」
「えぇ、そうです」
予想した通りの名前が出てきて、エリザベスは心の中で感嘆の声をあげる。
ミハエルが隊長に就任するよりずっと前から、ハインツは様々な策を講じ、あらゆる所に布石を張り巡らしてきたのかも知れない。
今回の襲撃事件の布石をも張っていた可能性はある。
それだけではない。
ウィリアムとの婚約破棄ですら、ハインツの計画の内だったのではないかと思えてならない。
(幾重にも張り巡らされた策。それら全てが、私を手に入れるために打たれた布石であるとするなら……)
ハインツの底知れぬ恐ろしさに触れてしまったようで、得体の知れない恐怖心にエリザベスの身体が震える。それと同時に感じる不思議な感覚がエリザベスの中には確かにある。
(まるで、蜘蛛の巣に引っかかった蝶ね)
ハインツという蜘蛛に魅入られた蝶は私。囚われる事に快感を覚えてしまった私は、もう狂っているのかもしれない。ただ、それを嫌だとは思っていない。その事が何よりも恐ろしい。
「全ては、ハインツ様の手の内ですか……。では、彼の思惑通り動かねばなりませんね。ミハエル様、私をハインツ様のところへ連れて行ってくださるのでしょ?」
「はい、そのように申しつかっております」
「では、参りましょうか」
ミハエルが、手を挙げると一人の隊員が近づいてくる。
「この者が、ハインツ様の元へご案内致します」
「あら? ミハエル様ではないのですね」
「えぇ、私はここでミリアを足止めしなければなりませんので」
「なんですって!? お嬢さまを一人で向かわせるわけに行きません! ちょ、ちょっとミハエル! 離しなさい!!」
「ミリアを止められるのは、この隊でも私くらいでしょうから。本当、さっきは危うく死ぬところだった」
「さっさと死ね! お嬢さま、一人で行くなんて、絶対にダメです。ハインツ様の思う壺です!」
「大丈夫よ。ハインツ様ときちんと話をつけてくるわ」
ミハエルに羽交い締めにされながらも暴れるミリアに手を振り、エリザベスは踵を返すと馬車へと乗り込む。
扉が閉められたのを確認し座席へと腰掛けると、一人になった車内でエリザベスは深く息を吐く。
「ハインツ様と決着をつけなければならないわね」
一人呟いた言葉が、ゆっくりと動き出した馬車の車内に響き消えていった。
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