「叙述トリック」的な

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「叙述トリック」的な

 俺は人の波を縫うように地下通路を歩いていた。  深い後悔を抱えていた。悔やんでも拭い去れないシーンが、いつまでも背後から付きまとう。それから逃れるようにもつれそうな足を速める。 「あの女さえいなければいいのよ」  冷酷に笑うあの声が俺を狂わせた。感情的にふるった右手が妻の頬をたたいた。乾いた音と、その感触がまだ残っている。俺は身震いした。  通路はやがて上り階段となり、その先にくすんだ白い光の出口がある。そこからノイズのような耳障りな低い音が響いていて足取りが重くなる。  地下鉄の出口を出てすぐに俺は顔をしかめた。まるで今の自分の心情を物語るかのような憂鬱な空が広がっている。目の前で行方を遮るように流れる優雅なマダムの傘の列をやりすごし、俺は小さくため息をつく。そんな間も空からは容赦なく絶え間なく降りそそぐ――。再び歩き始める。  ずっと抱え持っていたジャケットが湿ったように重く感じた。それを頭に覆うようにして俺は小走りに道路を渡った向こう側のアーケードに逃げ込んだ。 ※  杉並区の資産家宅で、その家に住む主婦栗林美紀の遺体が発見された。  門扉から母屋へ通ずる石畳の上で仰向けに倒れていた。首を絞められた痕と、争った際とみられる着衣の乱れ、腕とふくらはぎに擦り傷も見られた。警察はすぐに殺人事件として捜査を開始した。  栗林美紀の遺体は隣家の住人が発見した。 「いつも、閉まっている門が今日に限って開いてたんですよ」  住人によると、午前中に栗林家から言い争いをする声が聞こえていたという。 「その時には見に行かなかったのですか」  その刑事の問いに住人は大仰に顔の前で手を振る。 「いつものことなんですよ。夫婦仲が悪いのか、しょっちゅう喧嘩する声が聞こえるんです。だから今日も、ああまただくらいにしか感じてなかったんですよ」  ところが、午後になって住人が所用で栗林家の前を通ると門扉が開け放たれている。おや、と思った。栗林夫婦は人付き合いを極端に避ける。いつも門扉は固く閉ざされているのだ。不思議に思った住人が恐る恐る中に入ると、妻の美紀が倒れていたのだという。  言い争いをした相手というのが焦点になった。相手は夫である可能性が高い。鑑識による調べとともに、姿を消した夫の行方に捜査が向けられた。  重要参考人として、全力で夫の居場所を突き止めろ、と指令が飛んだ。 ※  アーケードは人で混みあっている。群衆の圧が、むんとした空気となって息苦しさを感じた。ポケットからハンカチを取り出してしきりに濡れた首筋を拭った。俺は間違っていたのだ、とずっと同じことを考え続けた。  自宅を飛び出して、どこへ行くあてもなく俺は歩き続けて駅に向かった。自宅周辺にはいられなかった。自分があんな行動をとるとは思わなかった。驚いて俺は逃げ出したのだ。  気が付いたら地下鉄に乗っていた。適当に乗り継いで適当な駅で降りてみたら南阿佐ヶ谷だった。なんてことだ、遠くへ遠くへと向かっていたと思ったら、ぐるっと回ってまた舞い戻ってきていた。まるで妻の呪いであるかのように。  自分に向けて嘲笑をする。アーケードを抜けて大通りに出る。車も人も、白い霞んだ景色の中で歩みを急いでいた。マダムが広げるような優雅な傘など俺にはない。Tシャツの背中はもうびしょびしょに濡れ、不快だった。急速に歩き続ける勇気がなくなっていた。俺は一体どこへ行こうとしているのか。そう自分自身を嘲笑した。 ※  夫である栗林悟について警察は徹底的に調べていた。  前科は無い。周辺住民からは大人しい優しそうなご主人だが、何を考えているか分からない、という平板な人物像とともに、嫁に虐げられる旦那という評価もあった。夫婦喧嘩が絶えないという話であったが、実は気の弱い旦那が日常的に激高する妻に叱責を受けていたのが実際らしい。 「女の影はどうか」 「栗林悟には愛人がいたという情報があります。愛人に入れ込んで離婚したがっていたという話もあります」 「遺体が発見される午前中には言い争う声を住民が聞いている。このこととの関連を掴みたい。被害者の死亡推定時刻は?」 「それに関しては、興味深いことが分かっています。検死結果では死亡推定時刻はある程度までは予測できていますが、それ以上に驚くような事実がありました。実は犯行当日は都内で20日ぶりに雨が降った日なのです。東京の無降水日数記録更新かと言われていましたが、あの犯行当日の午後に突然雨が降っています」 「ああ確かにそうだった。毎日猛暑が続いてウンザリしていた中の恵みの雨だったな」 「遺体が発見された時は土砂降りでした。住民は雨ざらしになっている遺体を発見したのです。鑑識の調べでは、遺体は死亡時には雨に打たれていたことが判明しました。当然雨の中殺害されたと最初考えたのです。ところが遺体を移してみると身体の下になっていた石畳の中央部が乾いていました。つまり殺害されたのは。気象庁の記録では杉並区一帯に降り始めたのは午後2時10分頃です。その直前が死亡時刻とみていいでしょう」 「なるほど、偶然の賜物といったところか。すぐに夫のその時刻の足取りを徹底して調べるんだ」 「分かりました」 「夫の職場の方はどうなのか」 「会社勤めではありません。資産家のボンボンの跡取りです。本業は農家です」 ※  俺はタクシーに逃げ込んだ。湿って不快な身体が、エアーコンディショナーの吹き付ける風で生き返った。尻ポケットからハンカチを取り出し、髪をゴシゴシと拭う。  運転手がミラー越しにちらりと窺っている。 「どちらまで」 「高井戸方面までお願いします」  目を閉じていた。観念をした。自宅に戻ろう、そして懺悔をする。許されない行為であることは百も承知であるが、結局俺にはそうすることしかできない。幼いころからそうやって生きてきた。俺は「許しを乞う」ことで解決させてきた。  「彼女」にも勇気を出して伝えよう。拒絶ではなく、許しを乞うのだ。  俺は夢は見ない、冒険もしない、元の鞘に戻るささやかな幸せを得よう。ぐるぐると歩き回って、情けないことに俺はそういう結論に辿り着いた。  とその時尻ポケットのスマホが震えた。着信は「彼女」からだった。 「あ、運転手さんここでいいです」  高井戸までは大分距離があったが、俺は慌ててタクシーを降りる。五日市街道の道端に降り立ち、コンビニの軒下に逃げ込んで密やかに電話をかける。 「もうこれきりにしてくれないか」 「何を言っているのあなたは」  彼女の口調はいつものように厳しい。俺には決まって命令口調である。うんざりした。初めて彼女への嫌悪感を持った。 「君にそそのかされて、俺は妻に大変なことをしてしまった。ああそうさ他人のせいにするずるい奴だ。でもそれでいい。俺は妻を傷つけたんだ。今日初めて妻に手をあげてしまった。ずっと悔いていた。もうこんなことをするのはやめようと思った」  無言の後に小さいため息。 「馬鹿なのあなた。嫁さんにいつも虐げられているって泣きついてあたしに甘えてきたのはあなたじゃない。それを何、いまさら――」 「申し訳ない。許してほしい。お願いだ」  心の底からあざ笑うような冷たい笑い声を彼女は発した。 「許さない。あたしを馬鹿にするのも大概にしなさい」  そしていつものあのセリフ。 「畜生。あの女さえいなければいいのよ」 「もううんざりだ。今日限りにしてくれ。俺の気持ちは変わらない」  長い沈黙の後で、「そう……」と彼女は言う。 「覚えておきなさい。今の言葉、後悔させてやる」  絞り出すような怒りに満ちた声だった。その声に押されそうになりながら、俺は思い切り電話を切る。これでいい。スマホの電源を落とし、颯爽と歩き始めた。  長い間、俺は彼女に心を奪われていた。妻と別れて、ふたりで幸せな生活を送ろうと、そんな馬鹿なことを一緒になって喋っていた。そしてそそのかされて俺は妻を傷つけた。馬鹿だった。ようやく気付いたのだ。俺は妻に虐げられているのではなかった。妻の強靭な愛情に圧倒されていただけなのだ。  晴れやかな気持ちで、俺はゆっくりと街道を歩いた。何台ものタクシーがスピードを上げて追い越していくが、俺は足を引きずってでも着実に歩いて家に帰る。それでいいと思った。  とその時だった。  大粒の雨が降り始めた。焼けたアスファルトに雨がはじける匂いとともに、ひんやりと心地よい清らかな雨が音をたてて降り注いだ。  俺は髪を濡らしながら天を仰ぐ。待ちに待った20日ぶりの恵みの雨だ。最高の気分だった。思わずステップを踏む。どんどん降れ。乾いた耕地に恵みを与えよ。そして雨が上がった空に、大きな虹を描くのだ。 (了)  
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