餃子の昼餐(ちゅうさん)

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      二  川上を介して飯野と知り合ったのは、二月程前の、まだ残暑の厳しい頃のことだった。  その日、陽平は川上に呼び出され、川上の通う大学へ出向いていたのだった。その時にたまたま飯野が川上と立ち話をしていて、その流れで紹介されたのだ。 「飯野和樹です」 「簗城(やなぎ)です」  その時はこんな感じに、本当にお互い軽い挨拶を交わしただけだった。別の大学に通っているので、陽平は正直この時は次に顔を合わせることなんて考えてなかった。陽平は「イイノ」という姓を「イノ」と聞き間違えていたぐらいだ。  だが、陽平のバイト終わりに偶然会い、それからというもの、何故か飯野が陽平の働く洋食屋に食べに来たり、先日は川上を交えて三人で吞んだり……、と何だかんだ顔を合わせている。むしろ人付き合いの少ない陽平にとっては、今や飯野はかなり頻繫に顔を合わせる知人の部類に入るぐらいだ。  生来の気質による部分も大きいのだろうが、飯野はよく笑う人懐っこい性格だった。そして会えば何かと陽平に話しかけてくる。食べることが好きな飯野の目には、どうやら料理が得意な陽平が特別な存在に映るらしかった。  バイト先で飯野の食べる姿を見たり、実際に飯野と会話したりしていて、この犬のような人懐っこい青年が、かなり食い意地が張った人間であることはすぐに理解できた。自分が口にする物にさほど興味を持たない陽平には、食べ物に執着する飯野が理解できない部分もあったが、その胸のすくような食べっぷりは見ていて気持ちのよいものではあった。  食い意地が張ってるとは言え、飯野は食べ方が汚い訳ではなく、割合キレイな方だ。そのことからも、飯野がそれなりの人物であろうことは見て取れた。  「いただきます」や「ごちそうさま」をちゃんと言う。  ただそれだけのことでも、案外それだけのようで、それ一つだけで人となりが分かったりするものなのだ。  陽平には飯野の「いただきます」は、料理を目の前にして、「これから食べてやるぞ!」という決意表明のようで、「ごちそうさま」は機械的な言葉ではなく、心の底からの感謝の言葉のように感じられる。  この間、飯野を自宅に泊めた時、陽平は詫びとして簡単な朝食を作った。  有り合わせの物で拵えたその雑炊は、陽平からしたら出すのも憚られる、およそ料理とは呼べない代物だった。だが飯野は、それすらも美味しそうにぺろりと平らげ、いつものように満面の笑みでごちそうさまと言った。その様子はうわべだけの形式ばったものではなく、心から料理を堪能しているように見え、陽平にとって未だかつない衝撃だった。「脳裏に深く焼き付けられる」とは、こんな時のことを言うのだろうと思った。  それこそ今日みたく、これまでにも友人などに手料理を振る舞う機会は何度もあった。自分の作った料理を振る舞い、食べ終わった後にもらう「ごちそうさま」の言葉は陽平にとって何よりも嬉しいものだ。料理を出した際にあがる歓声も好きだ。  だが、あの時の言葉は別格だった。  あの時飯野から言われた「ごちそうさま」という言葉は、今でもありありと思い出すことができる。その言葉を思い出せば、ありあわせの物で作った何気ない料理を、満面の笑みで頬張る飯野の顔まで思い浮かんでくる気がする。 そしてその時に陽平は、この青年の姓が「飯野」であることも知ったのだった。  やたらに食い意地があり、姓に「飯」の文字を持つ青年。  陽平は何らかの縁を感じずにはいられなかった。  この、飯野和樹という人間が、自分に深い興味を植え付けたのも、自然なことだったのだろうと思った。  なぜ、この青年はこれほどまでに食べることに執着するのか。  いや、そんな理由など何でもでもよかったのだろう。  この青年に、本来は必要なはずなのに自分に欠落してしまった「何か」を見出した、という方が正しいかもしれない。  間違いなく、陽平にとって、あの飯野の「ごちそうさま」は転機だったのだと思う。  見知らぬ世界を覗いたような、止まっていた何かが大きく動き始めた感覚が、漠然とした形で陽平の中に横たわっていた。作家を目指す身として、日々森羅万象を自分の言葉で写し取ってきた陽平だったが、この時はまだ、この「何か」だけは未だ明確に言語化できずにいた。
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