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四
陽平がそのまま支度を続けていると、十五分程して飯野は買い物袋を手に戻ってきた。
「戻りましたー!」
「ちゃんと買えた?」
飯野が笑いながら手に持っていた買い物袋をちょっと掲げる。
「よし、じゃぁ飲み始めよっか」
「はい!」
「折角だから、今日は立ち飲みにしない?」
「立ち飲みですか?」
「そう。俺が順々に料理作っていくから、君はここで食べなよ」
「あー、テーブルが出てる!」
飯野をお使いに行かせた間に、クローゼットから折り畳み式のテーブルを台所のすぐ脇に出してあったのだ。陽平は話しながら買ってきてもらった物を受け取り、冷蔵庫にしまっていく。
「そうそう、ここで立ち飲みしようかと思って。疲れたら、そこのイス持ってきて座っててもいいし」
陽平が書斎セットのイスを指差す。
「何かホントのバーみたいですね!」
「君は、向こうで買う時にこのお酒試飲とかしたの?」
「いや、別のは試飲したんですけど、これは飲んでないです」
「じゃぁ俺が先に飲んじゃったのか。何かゴメン」
「全然気にしないで下さい! そのつもりだったんで」
「先にこれだけ味見してみる? テイスティングの実験」
「はい! やってみたいです!」
陽平は同じグラスをもう一つ用意して酒を注ぎ、目を輝かせている飯野に手渡した。
「このグラス、オシャレですね」
「そう?」
陽平が用意したのは丸みを帯びた薄手のグラスで、飲み口の部分に向かってキュッとすぼまった形状をしていた。薄手なので中の液体への温度変化の影響が少なく、底が広く飲み口が狭い形が酒の香りを逃さないのだ。そんなことを陽平が軽く説明すると、飯野は感心した顔で目を丸くしていた。
そのまま最初に自分がやっていたのと同じ手順で、飯野にテイスティングをやらせてみる。飯野がどれほどの味覚の嗅覚を持つのか、陽平は前々から興味を持っていたのだ。飯野はぎこちない手つきでグラスを持ち、懸命に匂いを嗅いでいる。
「……匂い、分かった?」
「まぁ、何となく?」
「君の知ってる匂いで、何の匂いが一番近いと感じた?」
「うーん、果物っぽい感じですかね?」
「ほう……。それは生の果物? それともシロップ漬けの缶詰とか、人工の香料みたいな匂い?」
「新鮮な、生の果物っぽい気がします……」
「じゃぁ、甘い香りがした? それとも酸っぱい香りがした?」
「甘い感じでした。でも、そんなに強い感じじゃなくて……、あれ、酸っぱいのもあったっけな?」
陽平の矢継ぎ早の問いかけに飯野が少しまごつきながら答え、またグラスの中の香りを嗅いでいる。まだはっきり何に似ているかは測りかねているのだろう。
「……多分時間経ってるから、またさっきとは少し違う香りになってると思うよ」
「そうなんですかぁー」
「そういうもんです」
「ちなみに、正解って何なんですか?」
「俺は青りんごの香りに感じたかな。りんごでも、少し甘さの中に酸味がある感じで、蜜の部分みたいな香りに感じた。あと、熟した洋梨みたいな香りにも感じられるよね」
「あー、りんごかぁー。 言われてみれば確かにそんな感じですね」
「よし、次は実際に飲んでみよっか」
「はい!」
グラスに口を付け、グイっと飲むような素振りを見せた飯野を、陽平が慌てて止める。
「あっ、一気に飲むんじゃなくて、少し五秒ぐらい口の中に入れておいてごらん。多分味が変わると思うから」
飯野は言われた通り酒を口に含み、思案顔でゆっくりと飲み下した。
「……どうだった?」
「スゲー俺好みの辛口でした」
「でも、最初あんまり辛くなかったでしょ? ねっとりとした感じで」
「そうですね。後からカーっと刺激が来る感じで」
「刺激来た時、酒自体も少しサラッとした感じに変わったの分かった?」
驚いた顔で、飯野がもう一度酒を飲む。酒を口に含み、一点を凝視していた目がパッと見開かれる。
「確かに! 微妙に変わりますね!」
「でしょ?」
「すごいですね! あの時一口飲んだだけで、陽平さんこんなに色んな情報見てたんですね」
「プロのソムリエとかなら、もっと的確に見てるよ」
「俺からしたら、陽平さんでも充分凄すぎます」
まだ料理を食べる前から、既に飯野は興奮しきりだ。
「よし、じゃぁこっからは実際に料理に合わせてみよっか」
「お願いします!」
陽平はフライパンを火にかけ、その上で焼き肉用の牛肉を焼き始めた。両面に焼き色をつけ、そのまま感覚で味付けをしていく。今回の場合、市販の焼肉のタレでは味が濃すぎるため、醤油や味醂、砂糖などを絡めてサッと味を付けるだけだ。特に珍しい組み合わせでもないので、陽平はそのまま味見もせずに仕上げていく。調味料の香ばしい香りが台所一杯に漂い始めた頃、陽平は焼き上がった肉を皿に盛り付けた。
「よし、まずはお肉と合わせてみよう」
「これだけでも美味しそうですね」
「お肉食べて、その後に酒飲んでごらん」
陽平は飯野が先程使ったグラスに再び酒を注ぎ、箸と小皿を支度してテーブルに置く。
「ほら、召し上がれ」
「いただきます!」
飯野は肉を一口頬張り幸せそうな顔を浮かべる。すかさず酒のグラスに手を伸ばす。
「サッパリと食べれますね!」
「辛口のお酒だから、むしろこういうカルビみたいな少し脂っぽいお肉の方が合うんだよ」
「へぇー」
「肉の味も大丈夫?」
「はい! めちゃくちゃ美味しいです! ってか凄いですね、味見しないでこんな美味しく作れるなんて」
「あっ、そっか……」
陽平は飯野に自分の料理姿を見せたことがなかったことを思い出した。これまでにも手料理を食べさせていたが、作っている場面を見せたことはなかったのだ。一人合点する陽平を、飯野が不思議そうに見る。
「俺、何か変なこと言いました?」
「いや、俺はいつも味見せずに作っちゃうことの方が多いからさ、」
「それって、味バラバラになりません?」
「訓練してるから、使い慣れた調味料ならもう大丈夫かな」
「めちゃくちゃ料理されてるんですね」
「まぁ、それなりにね。俺さ、食材を食べた時、その食材がどんな食材と相性がいいのか、味付けはどんな物が合うのか、だいたい一発で分かるんだよね」
「何ですか、その特殊能力」
「分かりやすく言うなら、俺は今その能力を使って、君が持ってきた初見のお酒と合うように料理を作ってるってことだよ。そういう感じに、何か一つのお酒とか食材を提示されたら、それに相性のいい食材とか、調理法とかがパッと浮かんでくるの。食べ慣れている食材とかなら、頭の中に味の情報が残っているから、味見とかせずに相性のいい物が分かるよ」
「マジで何者なんですか……」
羨望を通り越し、少し奇異な物を見るかのように飯野が陽平を見る。
「いや、俺は結構難なく出来たから、他人から指摘されるまで特殊なモンだって自覚してなかったんだけどね」
「何かの機械みたいですね」
「機械?」
飯野の突飛な発言に、陽平は思わず苦笑する。
「君の見方は独特で面白いね」
「ここまで料理が出来て、料理の仕事とか考えなかったんですか?」
まぁ当然の疑問だ。この手の質問は、陽平も幾度となくされてきている。だから陽平の中でどう答えるかも決まっている。
「別に。仕事にしたいとは思ったことないかな。俺、別に料理出来るけど、そんなめちゃくちゃ好きな訳でもないからね」
「前から思ってたんですけど、陽平さん、ご飯ちゃんと食べてます?」
「んー、ぼちぼち?」
「ぼちぼち?」
飯野が胡散臭さそうに陽平を見る。
「陽平さん、今日は何食べました? さっきから俺ばっか食べさせてもらって、陽平さんは食べないし……。最初に泊めてもらった時も、冷蔵庫開けさせもらったら、中にほとんど食べ物入ってなかったし」
「よく見てたな」
「飲み物取っていいって言われて、それで開けたじゃないですか」
「あったねぇ、そんなんも。うーん、今日はまだ何も食べてないね。基本俺は一日一食だよ? 時間なければゼリー飲料だけとかも全然あるし……」
「俺のこと言えないじゃないですか! そんな不健康な生活して! 俺なんかよりよっぽど心配だなぁ。せめて俺の前ではしっかり食べて下さいよ。ちゃんと俺、見張ってますから」
「何で君にそんなことしなきゃいけないのよ」
陽平は不快感を顕わにする。面倒なことになったと思った。
「えー、だって、俺だけ酒の量見張られてんの不公平じゃないですか」
「それは……」
「あっ、そうだ。これからは、俺にご飯食べたか報告してください」
「え、嫌なんだけど」
陽平は露骨に嫌そうな顔で即答する。
「じゃぁ俺も今ここで酒好きなだけ飲ませてもらいますよ」
「何の脅迫だよ、それ」
珍しく陽平の口調が少し荒っぽい。だが顔は笑っている。やはり飯野と話していると面白いと思った。
「それだけ心配なんですって! 俺、毎週必ず陽平さんに連絡しますよ」
「ハイハイ。好きにしていいよ」
陽平は軽く受け流す。
「……買ってきてもらった鮪、食べる?」
「食べます。けど、陽平さんも一緒に食べてください」
「ハイハイ、分かったから」
皿に盛り直した鮪の巻き寿司をテーブルに出し、素直に陽平も一個つまんだ。
「鮪もこのお酒に合うんですか?」
「うん。肉の油が合うのと同じで、鮪も少し脂のある部位が合うんだ」
「それで『赤身は避けて』ってメモに書いてあったんですね」
「そうそう」
早速飯野は巻き寿司を頬張り、それを日本酒で流し込む。やはり飲むペースが早い。
「確かに、こっちも合いますね!」
「でしょー」
陽平は酒の代わりに炭酸水で飯野の相手をしている。二人でつまんでいる内に、皿に盛った巻き寿司はあっという間に空になった。
「それだけじゃ足りないでしょ?」
「いや、」
「でもまだお腹空いてるでしょ?」
「ま、まぁ、それは……」
「最後に梨と日本酒合わせようと思ったけど、その前に何か食べよっか。といっても、今用意できるはパスタぐらいしか……」
「パスタ好きなので、全然それでいいです!」
「そう言えばそんなこと言ってたね。ゴメンね、こんな物で」
陽平が棚から乾麵のパスタを出してくる。
「とんでもないです! 俺は陽平さんとこうしてご飯食べてるのが楽しいので。あっ、陽平さんも俺と一緒にご飯食べて下さいね、じゃないと俺も食べないので」
「ハイハイ」
先程からすっかり飯野に乗せられっぱなしだ。だが陽平は、何だかんだと言いつつもそれがたまらなく楽しかった。無邪気な子どものように、この時間がいつまでも続いて欲しいと思うぐらいに。
浮かれ過ぎて、つい裏表のない飯野の言葉を愚かしくも勘違いしてしまいそうになる。
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