エピローグ

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 午前零時——  柘は快気祝いのパーティーを早々に切り上げ、クラブエデンのある福州路と十字に交わる浙江路を南に向かって歩きだした。広東路(カントンルー)は福州路の百メートルほど南にある通りの名だが、ひと口に広東路と言っても通りは東西約千五百メートル。路の両側に幾つもの小路が伸び、さらに弄堂(ロンタン)(路地)が網の目のように入り組んでいる。〝金星(チンシン)〟というバーが弄堂の迷宮に隠れているとしたら、捜しだすのに骨が折れることだろう。それでも柘に焦る気持ちはなかった。病院のベッドに沈みながら、幾度看護婦たちに自分を運び込んだという少年の人相を訊ねたことだろう。白色の視野で探り当てたのは縄梯子ではなく、その少年は(リュイ)に似た通りすがりの誰かだったのでは——そう思うと居ても立っても居られなくなり、河東から緑の生存を聞いてもなお、あまりに烈しく鮮烈な緑の記憶は穏やかな日常の中では実体のない幻のように感じられ、気鬱な物寂しさを味わったものだった。その辛さを思えば、この瞬くネオンの何処かに緑は居る——その気配が感じとれるだけで、柘の胸に苦しいほどの幸福が満ちるのだ。  柘は左腕を吊る三角布を取り去った。首許から蝶タイを外し、翻っていたディナージャケットの左袖に腕を通す。銃創はほとんど癒えていて差し障りは感じない。広東路は相変わらず賑わっており、雑踏に揉まれながら湿った夜霧を吸い込むと、帰ってきた、という高揚感が漲ってくる。  柘は足取りも軽く、小路に連なる雑居楼を丁重に巡っていった。浙江路から西の界隈は西へ行くほど怪しげな様相になってゆくも、柘の足は怯まない。  ——愛徳華路にある平凡なぼったくりバー。  以前、緑はそう言っていたけれど、今度もおそらくその類いの店に違いない。 (しかし、愛徳華路の店をクビになったのか。悪いことをしたな。だが〝金星〟とは振るっている。扉を開けるとヴィーナスが出迎えてくれそうな店名じゃないか。助平心で踏み込むと、美女ならぬ美少年にしこたま金を巻き上げられるという寸法か)  いい気分で酔っぱらった客の鼻先に、バーテン姿の緑がカウンター越しにっこり笑って法外な金を要求する。そんな光景を思い浮かべ、ひとり含み笑う。調べを済ませた雑居楼の狭い階段を下りて路上に出ると、霧にけむった空から大粒の雨が落ちてきて、あっという間に土砂降りになった。そぞろ歩きの酔っぱらいや、ポンビキ、野鶏や物売りたちが、蜘蛛の子を散らすように路の両側に連なるの雑居楼の軒先へ飛び込んでゆく。  柘は雨に打たれながら腕時計をのぞいた。いつの間にか午前三時を過ぎている。片目をつぶり、降りしきる雨空を見上げる。 (明日にするか。今夜は止みそうもない。緑が消えるわけじゃなし)  一つ息をついて、くるりと踵を返す。 「もうちょっと捜せよ。薄情もん!」    後方から、歯切れのよい上海語が飛んだ。胸の底から込み上げる歓喜を、無理にこらえて振り向くと、雑居楼の軒に吊られた紅い花灯の下、雨宿りの人込みに紛れて、栗色の髪をきちんと撫でつけた小柄なバーテンダーが仁王立ちしてこっちを睨んでいる。 「探偵には向かねえな。粘りってもんが全くない」 「大きなお世話だ。呑気に捜すのがおれの流儀だ」 「旦那につき合っていたら、またクビになっちまう」 「つき合ってくれなんて、頼んだ憶えはないぜ」  澄ました顔でそう言うと、緑が破顔して雨の中へと踏みだす。自分を取り巻く全てのものが鮮やかに色づき、熱をおびて動きだすのを感じながら、柘はふと、老樹の木漏れ日から蝶が舞い降りて来たあのときから、こうなる事が決っていたような気がした。 「恍けたって駄目だ。迎えに来てくれたんだろう」 「自惚れるな。ただの散歩だ」 「おれは自惚れている。旦那のこと、ずうっと見ていた。病院にも毎日行ったし、寺に行ったのも知っている」  降りそそぐ雨に翡翠色の眼を細めつつ、緑がにやっと笑う。 「死んでも離さねえって、言ったはずだぜ」    泣きそうな唇をぐっと引き結び、ぶつかるようにして柘を両手でかき抱く。 「ずっと……一緒にいていいんだよな?」    頬を押しつけ、確かめるように訊く。 「ずっと一緒だ」    柘が言った途端、リュイが伸び上がって接吻する。    ヒュー!  雨宿りの人波から口笛が鳴った。土砂降りの雨音に混じって、酔っぱらいの野次が飛ぶ。 「往来だぞ」  唇を離して小声で言うと、 「飢え死にしてもいいのかよ!」    緑が蕩けそうな笑顔で柘の首根っ子を抱えこむ。背伸びしながらまた口づけた。 (まあいいか……)  柘は吸いついてくる愛しい唇に唇を重ね、伸びあがる小柄な躰を抱きしめた。ずぶ濡れの服を通して緑の早い鼓動が伝わってくる。その鮮やかさに陶然とし、熱く脈打つ自分の生に喜びを感じる。 (緑は生きている。そしておれも生きている。おれたちが上海の夜に流れる喰い合うだけの獣でも、おまえがおれを、おれがおまえを必要なら、そこに生きる歓びがあるはずだ)  弄堂の片隅で、蠢く人々の波に押されながら、二人はいつまでも抱きあい、ネオンの滲む原色の雨に打たれた。       完    ※参考文献   『上海 魔都100年の興亡』ハリエット・サージェント著 新潮社   『魔都上海十万の日本人』NHK取材班=編 角川書店   『上海史』高橋孝助/古厩忠夫編 東方書店   『上海人物誌』日本上海史研究会編 東方書店   『オールド上海阿片事情』山田豪一著 亜紀書房   『中国の秘密結社』山田 賢著 講談社   『写真集 懐かしの上海』小堀倫太郎編 国書刊行会   『中国武術 点穴法』青木嘉教著 愛隆堂   『日本の剣術』歴史群像編集部編 学研   『武士道とエロス』氏家幹人著 講談社   『紅萌ゆる』土屋祝郎著 岩波新書
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