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討情分1
銃弾に貫かれた柘の躯は、榻ごと落下して水面に叩きつけられた。視界の利かない濁水に呑み込まれ、水底へと引き込まれる途中で浮上を始める。括られている籐製の榻が浮きだしたのだろう。絡んでいた真山の腕が反動に緩み、ゆっくりと離れていく。
(真山は死んだのだ。引鉄をひく直前に……)
真山の銃弾は柘の心臓を逸れ、左肩を撃ち抜いて飛んでいったのだった。からくり床の発動は、それを懸念しての真山の最期の策であったのか。それとも死んでもなお、離れることを恐れたのか——
真山の凄まじいまでの執念を哀惜をもって心に浮かべ、じきに逝くから安心しろよ、と柘は心で言ってやった。恐ろしくはなかった。上も下もわからぬ闇がおのれの終焉の場であることを、不思議なほど安らかな心持ちで受け入れる。
(あいつを巻き込まずに済んで、よかった——)
柘は水に身を委ね、愛している、と心のままにつぶやいた。
(河東さん、貴方の言う通りです。おれはあいつに惚れている。十も年下の、人を殺して罪の呵責を感じぬ少年を、哀れと思いつつ、あの純粋さに、あの強い生命力に、どうしようもなく魅せられていたんです。だからこそ恐かった。おれは疫病神で関わる者を不幸にする。けれどやっと、願いが叶ったようだ)
柘は心の内でそう告白し、苦痛のなかで微笑んだ。熱い痛みをともないながら左肩から体液が流れ出るのを感じつつ、割腹したときの意識の途絶える瞬間を思いやる。
(今度こそ成就だ……)
意識を手放しつつそんなふうに思ったとき、ふいに辺りが大きく揺れた。顔を水面に押し上げられ、強制的に空気を送りこまれる。苦しさと痛みにむせながら榻にすがって水を吐く。
いつの間にか躯を縛っていたロープが切られ、誰かが背中をさすっている。確かめる余裕もなく咳き込み続け、やがて蘇生の苦しみが去り、浮いている榻にぐったりともたれる。
黒い水面から、その誰かが顔を出す。口に銜えていた小刀子を榻に突き立て、濡れた白い面にほっとしたような笑みを浮かべる。
「な……んだ……おまえ……」
痛む咽から声を絞って、柘は睨んだ。
「なんだはねえだろう。助けに来たんだぞ」
薄闇の中、緑がふて腐れたように唇を尖らせる。柘は顰めっ面のまま辺りを見回した。黒い水面は、居間そのままの広さがありそうだった。プールの上に部屋があるとでもいうような。しかしプールというより水牢の風情である。鼻をつく独特の匂いから、水が蘇州河からひかれているとわかる。そうであれば河に通じているはずだ。
緑が察し良く、探りに潜る。柘は激しく痛む左肩の銃創を押さえ、緑が戻ってくるのを待った。
「阿片の運搬に使っていたんだな。水門があった」
水面から顔を出した緑が、濡れた前髪を掻き上げながら言う。
「出られるか?」
「いや。水門は閉っている」
「開かないのか?」
「うん。開閉装置は上だな」
柘は見上げた。天井には長方形の大きな穴が開いており、そこから黄色っぽい光が差している。天井から水面までたっぷり四、五メートルはありそうだが、緑なら——
「登れるか?」
「小刀子一本じゃ無理だな。壁に苔が生えている」
立ち泳ぎしながら、緑が他人事のように言い捨てる。柘は眉を寄せて壁を睨んだ。闇に慣れてきた眼に煉瓦壁の苔むした肌合いが見える。
「どうやって出るつもりだ?」
緑が小首をかしげる。
「考えないで飛び込んだのか?」
「うん」
緑が涼しい顔でうなずいた直後、柘は掠れ声を張り上げて怒鳴った。
「莫迦ッ! なんでそんなに莫迦なんだ! どうするんだ、おまえまでッ、莫迦野郎ッ!」
「なんだよ。旦那が悪いんだぞ」
「なんでおれが悪いんだ?」
「指をくわえて見てろって言うのかッ!」
緑が漂ってきた黒い浮遊物を忌々しげに蹴る。隅に向かって押し出されたのは、うつ伏せに浮かぶ真山の骸だ。
「止せ!」
「心中なんかさせるかよッ!」
緑が眉を吊り上げて怒鳴る。水牢のような地下に緑の怒声が反響し、柘は顰めっ面のまま反響が止むのを待った。
「そんなくだらん理由で来たのか。いつからそんなに莫迦になった?」
声を抑えて言う。
「莫迦にしたのは旦那だろう。責任とれよ」
「なんでおれが責任とらなきゃならんのだ? 大体おまえがッ」
「いいよ、莫迦でも。旦那といてえもん」
緑が叱られた子どものようにぷいと唇を尖らせ、黒い水面を泳ぎだす。 天井からそそぐ黄色っぽい光が、黒い水面を油のようにみせている。柘は、浮遊する真山の骸を複雑な思いで見つめ、榻に突き刺さる小刀子に眼を戻した。緑はおのれの命も顧みず、小刀子一本口に銜えて飛び込んで来たのである。嬉しくないといえば嘘だ。だが、放っておいて欲しかったというのが本音であった。
(どうすれば緑を……)
水深は深く、水温も高くない。体力が続く限りは持ちこたえられるだろうが、いつまで——
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