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「しかし……どうやって軍舎を抜けた? まさか……強行突破したんじゃあるまいな?」
肌に張りつく血まみれのシャツを裂かれつつ、柘は訊いた。銃創の激烈な痛みに息が上がり、遠退きそうになる意識を懸命に繋ぎ止める。
「河東サンが出してくれたんだ。旦那を連れ戻して来いって」
緑が、裂いたシャツで柘の左肩をしばって止血する。
「あの人、いい人だね。見直したぜ」
感心したふうに言う。
柘は痛みに呻きつつ、河東の顔を思い浮かべて溜息をついた。
「おれはな……おまえが生きるのだけが望みだったんだぞ。それをぶち壊しやがって……莫迦野郎」
「だったら旦那が生きろよ。そうすりゃおれも生きる。何処までもついて行く。縁を切られたって、ついて行くッ!」
振り向いた緑が、泣きそうな顔で噛みつくように吼える。
「勝手に決めるな」
柘は冷めたく言った。
「自分の道を生きろって……旦那が言ったんだぜ。だからおれ、自分の決めた道を生きるんだッ!」
緑が泣き顔を隠すかのように泳ぎだし、ひょいとこっちを見てにこっと笑う。
(どうして、おまえはそうしていられる?)
柘は、黒い水面に見え隠れする裸の背を見つめた。残酷な欲望と憎悪に痛めつけらながらも、その背に備わった羽根は歪むことなく伸びやかなのだ。それはおそらく、無垢な魂がもたらした一つの奇跡なのだろうと柘は思い、それゆえの欠落を痛ましく感じた。そして、その罪深ささえ、どうしようもなく愛しくてならない自分がくすぐったい。
「まったく、どうするつもりだ……」
お手上げ気分でつぶやいたとき、柘は、泳ぎまわる緑の陽気な姿が、なにを連想させるのか気づいた。それは木漏れ日から舞い降りてきた蝶が、柘の周りを戯れ飛んだあの懐かしい情景だ。
(こいつは来たのか……溺れかけていたおれのところへ——)
天井を見上げた柘の心に、彫師のおようの言葉がよみがえっていた。
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