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討情分2
「林宣は、和尚の俗名だ。長沙で逢った物売りから、小さい時、林宣と峨嵋山で暮らしていたって聞かされたんだ。それが二年前〝籠〟を飛び出した理由だ。でも、見つけ出した和尚は、おれが山賊に攫われたってだけで、後は何も……。だから師傅との間に因縁があったなんて……知らなかった」
緑は水に浮かんで漂いながら、柘に訊ねられるまま話をした。そうしながら、空念に呼び出された宵のことを思い出す。黒獅子の蒋との情事の後、緑は清安寺へ行ったのだ。
「御仏の慈悲にすがろうともせぬ、不届きな男がいる」
灯明の揺れる古びた祈堂に坐していた空念が、ふいに独り言のようにつぶやく。
緑は、他に誰もいない虫の音ばかりの小さな堂の暗がりで、空念の言葉に耳を傾けていた。
「自分を責め傷つけ、決して赦さず、救われようとも思っていない。然るにその男、何を考えてか出家を願いよる。不埒とは思わんか。救われる気のない人間を救うなど、いくら御仏でもできん相談じゃ」
深い皺に埋もれた見えない目のうちで、空念は想いを馳せているようだった。
「生と死、正と邪、それらは表も裏もない無相の対極。だのにやつめは、それを潔しとせん。生きようとする魂を封じ、おのれの生を卑しめて顧みようともしない。まったく以て救いようのない戯けというわけよ」
空念がふうと長い溜息をつき、こんな戯けをどう思う、と訊いた。空念の言葉は観念的で、緑はいつも返答に窮する。黙っていると空念がまた口を開く。
「この男に会って来い。気に入ったら、やつの助けになってやれ」
「仕事か?」
「さて、それは分からん。やつは拗ね者ゆえ、助けなど不要と言いよるやもしれん」
「そう言われたら、どうすれば?」
「その時は、おまえがどうしたいのか。おのれで考え、おのれで決めろ。やるもやらぬも、おまえ次第だ」
今では懐かしい想いのなかで、緑はくすりと笑みをこぼした。前の晩に出会った黄包車の男のことが気になって、訳のわからぬ拗ね者と会うのが億劫だった。しかし、その拗ね者こそ、黄包車の男だったのである。それに気づいたときの驚きと興奮を、緑ははっきり覚えている。尾けていた輩が何者か判らぬうちに動いたのは、その所為だったに違いない。吸い寄せられる感覚のわけを、緑は知りたかったのだ。
(あれは、おれの花王を、おれより先に心が見つけて、おれに教えてくれたんだ)
緑はそう思い、引き会わせてくれた空念に感謝した。
黒い水面を漂いつつ、緑は榻に凭れる柘を見た。どのくらい時間が経ったのか、顔色は悪くなる一方だ。銃弾は貫通しているけれど、皮膚の損傷が酷く、水に浸っているせいで血が止らない。痛みも半端なものではないだろう。とっくに気を失っていても、おかしくないほどの傷なのだ。
(このままでは……)
緑は、視界の端に漂う浮遊物にあらん限りの憎悪を覚えた。あたかも柘が息絶えるのを、じっと待っているかのように感じられるのだ。
銃声が轟いた直後の、落ちていく文龍の顔を、緑は見たのだった。抱き締めた柘の首もとに顔を押しつけ、眼を閉じて、唇には笑みが浮かんでいた。憎悪も狂気も去ったその顔は、ただ二人だけの世界へ向かう歓びに安らいでいたのである。
(そうはさせないッ! でも、どうやって?)
緑は陽気に泳ぎ、魚のように水面を跳ねて派手な回転を見せてやった。眺める柘の顔は笑っていて、びしょ濡れの緑の笑顔に涙が落ちた。
「記憶は……戻ったのか?」
柘が訊いて、緑は首を振った。過去の状況が断片的にわかったというだけで、空白は依然存在している。まして会うたびに交わり戯れた大龍頭が実父であり、文龍が哥であったことも、何一つ情に訴えるものはなく、ただ忌わしく感じるだけで絵空事のように遠かった。
「もう、いいんだ。おれは孤児で、和尚が父老だ」
「そうだな」
柘が黒い瞳を向けてうなずく。
(この眼差しが、おれを支えている)
見つめ返しつつ、緑の心に〝心の拠り所〟〝帰る場所〟そんな言葉が浮かんだ。陶が放った呪の言葉に怯まなかったのは、自分の居場所を見つけていたからに違いない。
(おれは間違っていなかった)
此処にいる自分を、緑は誇らしい思いで褒めてやった。
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