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「……しかし、いつから気づいていた? おれはてっきり」
柘が思い起こすように眉根を寄せる。その気難しげな、解けぬ問題に悩む学生のごとき表情に、緑は笑ってしまった。
「ある時、ふっと、旦那の声が聞こえたんだ。躯は動かないんだが、声は聞こえた。旦那が師傅に、くだらん上に腰抜けだって言っただろう。おれ、なんか可笑しくなって、師傅もただの人間だって思ったら、なんでおれ、あんなに恐がっていたんだろうって——旦那のおかげだ」
「おまえの力だ。おまえは自分でけりをつけたんだ」
「旦那がいたからだ。そうでなきゃ……」
緑の脳裏に、銃口を向けた蜂の怯え顔が映った。背を向けたら、逃がしてやるつもりだった。けれども蜂は、引鉄を引いたのだ。
緑は、蜂と横たわった寝台の心淋しい情景や、雨音の中で感じた絶望の肌合い、蝶と蜂がともに羽根をたたんで闇の籠にいたことを哀切をもって心に描いた。
(あいつには行き場がなかった。だが、その気になれば作ることはできる。迎え入れてもらえなくても、傍にいることはできる。そこだって居場所になるんだ——)
柘の周りを泳ぎつつ、緑は、着かず離れず飛び続ける蝶を想った。そして柘が死んだら、花王に寄り添う蝶のごとくその傍に身を寄せて、この命を終えるのだ——そう心でつぶやいた。
「なあ、芝居でもしないか。おれはグラマーな美人ダンサーで、旦那は男前のジゴロ。二人は情人の仲なんだが、金持ちの意地汚ねえ老太婆が、旦那を男妾にしようと追っ掛けてくる。おれたちは脱出不可能な水牢に落とされ、今生の名残に燃えるって設定、どうだ?」
緑は言った。焼くそだった。抱いてもらえるとは思わない。だが生きているうちに、生きている柘を抱きしめたかった。阿片窟の地下での一度きりの抱擁が、遠い昔のように懐かしく感じられた。
柘がこっちを見ている。濡れた首に巻きついている青痣は、緑が絞めた指痕だ。殺してでも自分のものにしたいと、あのとき緑はそう思っていた。
(でも、今は違う——)
緑は立ち泳ぎしながら固唾を呑み、柘の言葉を待つ。
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