討情分3

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討情分3

「……今生の名残ってのが、頂けないな」  水面に浮かぶ(タァ)に裸の上半身を預けつつ、柘が気難しい面つきで言う。 「なら、救援が来るまでの間ってことにしよう。助けだされたおれたちは、一生幸せに暮らすんだ」 「誰が助けにくる?」  問い返され、(リュイ)は瞳をくるりと動かし思案する。 「河東サンとか」 「それはないな。河東さんは陸戦隊本部の参謀室に詰めている」 「だったら、あの貧乏臭せえ靴売りの親爺にするか。しょぼくれて見えるけど、実は怪力で、旦那から柘榴をただでもらった礼に水門をへし折るとか」  薄闇の中、柘が肩を揺らしてくすくす笑う。 「じゃあ、そういうことで」  手を打とうとすると、 「待て」  柘が遮り、 「なにをして燃えるんだ?」  真顔で問う。緑は心中で舌打ちした。柘は芝居の設定に滅法細かい。大白幇(ダーパイバン)に潜入する際も、即席ながらそれなりに検討したものだった。どさくさに紛れようとの戦法は、柘には通用しないらしい。 「情人なら……抱き合って……接吻して……やっぱり……(ファン)(性交)するんじゃないのかな……普通」 「房は厳しいだろう。魚じゃないんだから」  柘が真顔を崩さずに返す。 「なら……それ無しでも……いいけど」  渋々返すと、柘がまた眉を寄せて考え込む。 「グラマーなダンサーというのも無理がある」 「じゃあ物売りの小娘にするか。キャバレーで西瓜の種を売っているとか、まだ胸も尻も出っぱってなくて、いずれ出っぱる予定の小娘」 「少年じゃいかんのか?」 「へ……」 「美少年のバーテンとジゴロじゃいかんのか?」 「旦那ッ!」  緑は思わず声をあげてしまった。すると柘が眼を上げ、 「芝居なんだろう?」  眉ひとつ動かさずに返す。   「ま…ァ……そうだけど」 「そういうことにしておけよ」    澄ました顔で言ったあと、柘が極り悪そうに横を向く。緑は何をどうしていいのやら、返す言葉も思いつかなくて、黙って頬を火照らせた。 「来いよ」 「うん」  柘に呼ばれ、緑は勇んで水を蹴った。すると反動で首輪がシャンと鳴り、そのまま水に潜って留金を外した。不思議なくらい何も感じなかった。真っ暗な水中で手を放すと、翡翠の首輪は音もなく水底へ落ちていく。記憶の始まりと共に心に降りたち、長いこと巣食っていた大きな黒い鳥がようやく飛び去った——そう、緑は感じた。  水から顔を出すと柘が見ていて、緑はなにやら気恥ずかしくなり、榻に凭れる柘の横に並ぶや、眼も合せずに俯いた。見られているだろう首の傷痕が熱く感じられ、纏足(てんそく)の女がその折れ曲った小さな足をさらすときの羞恥を思いやったりする。 「みっともないだろう……」  意味もなく首の傷痕をさすり、隠すように顔を振り向ける。と、柘の唇が寄ってきて、緑の唇を柔らかくついばむ。緑は、初めて接吻された少女のように声も出せずに頬を赤らめてしまった。柘が吹きだし、アハハと笑う。 「なんだよぉ……そうやって老太婆(ババア)どもを手玉にしているのかよ……」  緑は頬を火照らせたまま、悔し紛れに唇を尖らせた。 「人聞きの悪いことを言うな。今のは芝居のプロローグだ」  柘が覗き込むようにまた顔を寄せてくる。 「だったら笑うなよ。ぶち壊したのは旦那だぞ」  緑は恥ずかしくなって横を向いた。  「おまえが急に小姐(シャオチエ)(お嬢さん)みたいな顔をしたから、びっくりしたんだ」 「悪いかよ! こっちだってびっくりしたんだぞ」 「怒るなよ。仕切り直せばいいだろう」 「なんだよ、本当に芝居臭せえじゃねえか」    緑は膨れっ面を向けて、柘を睨んだ。くすくす笑っているけれど、肩を縛った布は血の色に染まり、裸の胸はしたたる血潮に濡れている。いくら気丈にしていても、いずれ限界がくる。緑は唇を引き結び、泣きたくなるのを懸命に堪える。 「じゃあ、いくぞ。次は本番だからな。笑うなよ」 「おう」 「おう、なんて言うなよ。立ち合いじゃねえんだぞ」 「もう黙れよ」  柘に顎を引き上げられ、唇が重なる。緑は、柘の裸の背に腕をまわして強く抱きしめた。唇も肌も冷え切っているけれど、口の中は命の温かさを保っている。貪るように舌を絡めつつ、二人は固く抱き合ったまま黒い水面に滑り落ちた。  真っ暗な水の中で上もなく下もなくもつれ合いながら、緑は眩むような法悦を感じた。躯を繋いでいるわけも、愛撫されているわけでもない。ただ互いの躯を抱いている、それだけなのだけれど、抱いている、抱かれている、その行為が伝える互いの心が、重ねた肌とそこに息づく命が、狂おしいほどの歓喜の波動となって緑の官能を揺さぶるのである。絶頂のきざしを感じつつ、このまま達することなく永遠に抱き合っていたいと願うも、緑は呆気なく果ててしまった。 「……死んでも一緒だぜ」    堪え性のない若い躯を水に浮かべつつ、ぽつんとつぶやく。血まみれの片腕が緑を引き寄せ、水面をスイと進む。柘は思いの他、泳ぎが達者だった。救助される者のように身を預けつつ、緑はいとしさに泣けた。 「死んでも……離さねえからなッ!」    暗がりに漂う死神のような浮遊物を睨んで、半泣きの声で吼える。  ——ボシャン  何かが水面を叩き、はっとして天井を見上げる。黄色っぽい光の差す長方形の穴に人影が覗いている。
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