19人が本棚に入れています
本棚に追加
討情分5
柘は縄梯子を上り、冷え切ったずぶ濡れの躯から水を滴らせながら屍体が転がる血に汚れた居間に立った。電気灯の眩い光に眼を細めつつ、蒋から渡された日本刀の鞘を払う。ズシリと重い刀身を一振りした。
ヒュン!
鋭い刃鳴りがし、遠心力で腕の筋肉がぐっと伸ばされる。刀身が重く感じられるのは貧血の所為に違いない。久しく手にしていなかった真剣の感覚を呼び覚ますように、刀身を前後左右に振ってゆく。そうしながらおのれの躯が思った以上に強張っていることや、体力のほとんどが失われていること、左腕が使い物にならないことを知り、この勝負がより厳しいものであると悟った。
刀身を振るごとに左肩に激痛が走り、眉根を寄せる。銃創から新たな血が流れでるも頓着している余裕はない。緑の命が懸かっているのだ。
電気灯を浴びる白い居間は血生臭い修羅場のまま止まっていた。そしてそれは黒獅子の蒋という新たな役者の登場によって、最後の場を迎えようとしているかのようだった。
(生きて舞台を降りられるのは、奴かおれか——)
霞む切っ先を見定めようと眼を凝らす。刀身の重量に引かれ、ゆらりと上体が傾いだ瞬間、青白い白刃と白刃の宙で血煙を上げ、どうと倒れるおのが姿を想像し、柘は、はっとしてぎりぎりと眼を見開いた。
「ここが戦場なら、あんたは今、死んでたぜ」
部屋の隅へと屍体を運んでいた蒋が、冷えた眼を上げ柘を見る。卓上のテーブルランプを刀の鞘尻で突き飛ばした。
「哥さん。言っておくが、あんたが死んだ後、おれが麗猫を助けると思ってんなら甘いぜ。引き上げたが最期、おれは間違いなくあの世行きだ。あいつはとんでもない魔物だが、あんたを思う気持ちだけは真剣だ。だからあんたも腹を括れ。あんたが死ぬとき、あいつも死ぬってな」
「承知」
柘は気魄を込めて蒋を見返した。腹にぐっと力を入れ、両の足を踏みしめる。蒋が血に汚れた黒い上着を脱ぎ捨て、唐獅子の彫物を入れた鍛え込めた上半身をさらす。床へ叩きつけた石油ランプの炎が絨毯へと燃え移るのを一瞥し、静かに抜刀する。
柘は右腕のみで刀身を頭上に据えた。尾を立てた蜻蛉のごとく刀身を真っ直ぐにつける構えからの斬撃は、右腕の力のみで打ち下ろす示現流独自のものだ。左腕が使えない今、蒋を仕留めるにはこれしかない。
「いい気合だ」
熱に浮かされたような眼つきで、蒋が歯を剥いて嬉しげに笑う。高めの青眼にとり、頭上につけた柘の右拳に剣先を付ける——と、一気に間境を越えて殺到する。
(速い)
柘は一歩開き、蒋の肩へと刀身を振り下ろした。
キンッ!
火花を散らして、蒋の刃が柘の初太刀を受け止める。
「くッ…」
柘は奥歯を噛みしめ、押し斬ろうとする蒋の刃を渾身の力で押さえ込んだ。鍔で競り合い、踏み込んで体当たりした直後、振り戻した柘の一刀が、落雷のごとく蒋の脳天へと打ち下ろされる。
カッ!
刀が撥ね、蒋が飛びすさって間合いを取る。
「……凄えなァ、哥さん……鳥肌が立ったぜ」
無精髭に覆われた不敵な顔に、満足そうな笑みがのる。高揚に肌を紅く染めた蒋の背後でカーテンが燃え落ち、壁を伝いのぼった炎が天井を舐めはじめる。黒煙が充満してゆく室内で、二人は構えをとったまま凝然と睨み合った。炎の熱で汗がだらだらと滴り流れ、霞む視界を通り過ぎていく。
(この躯で、あとどれだけ持続できるだろうか……)
柘は静かに自問した。気魄で補ったとしても僅かだろう。しかも炎の中で残された時間はあまりない。
——敵より疾く動いて斬れッ!
剣の師であった祖父の声がきこえた。示現流の真髄は神速の斬撃。「攻」のみで「防」を持たぬゆえにその剣は一刀必殺でなければならぬ。
柘は、斬るッ、という気魄を全身に漲らせ、
「行くぞッ!」
と叫んだ。蒋が右足を引き、刀身を青眼から八相にとる。相討ち覚悟の構えをとった蒋の眼に狂気に似た凄まじい執念が燃え上がる。
(赦せ、真山。おれは生きる。死に損ないのおれに生きる価値があるかは分からない。だがきっと何かあるんだ。そうでなければあいつとおれが、出逢うことなどなかったはずだ——)
炎の狭間で眼光と眼光が空を裂いた刹那、蒋が気勢を吐き、柘は一直線に斬り込んだ。
「おおおおおおおッ」
蒋の刃が刃鳴りもろとも降りかかる。柘は僅かに身を捌き、蒋の首根から胸へと気合もろとも斬り下ろした。骨を断つ重い衝撃が右腕を貫き、蒋の首から鮮血が噴き上がる。
「死神さんは……どっかに……行っちまったようだな」
おびただしい血潮で顔を濡らした蒋が、にやっと笑って膝をつく。そのまま仰向けにどうと倒れた。
「黒獅子の蒋」
炎に照らされる剛胆な面構えに微笑を返すと、
「……リ…マオ……を…」
蒋が声を絞って懸命に唇を動かす。柘は黙ってうなずいた。彼の優しい眼が言葉の続きを語っていた。蒋が安堵したような笑みを浮かべ、静かに眼を閉じる。柘は安らかな死に顔に黙祷し、緑を救うべく床の穴へと振り向いた。
刹那、霞んでいた視界が白色に変わる。
「……リュイ」
柘は傾いでゆく躯を血刀で支えた。躯中から冷汗が噴きだし、呼吸が乱れて意識が朦朧となる。
「緑……返事をしろ……リュイ……」
声を絞って呼べど、白色の視野に緑の声は聴こえてこない。柘は刀を捨て、床に手をついて辺りを探った。充満してゆく煙と熱風のなか意識が遠退き、はっとして歯を食い縛る。こんなところで、緑を死なせるわけにはいかない。
「……緑……リュイ……リュイ……」
この先に緑がいる、それだけを考え、ただひたすら焼かれるような激痛に耐え、前へ前へと這いずるように手を伸ばす。
「旦那ッ! 無事かッ!」
ふいに床下から、くぐもった声が聞こえた。
「……緑ッ」
柘は声を絞って緑を呼んだ。煙に噎せつつ、腕の力のみで動かぬ躯を引き摺り、床を這い進む。
と、伸ばした手指に穴の縁が触れる。
「リュイ……もうすぐだ……もう、すぐ……」
柘は気力を振り絞り、穴に沿って縄梯子を探した。
「旦那、此処を出たら、一杯一杯房をしような! そしておれたちは、ずうっとずうっと幸せに暮らすんだ!」
緑の声がおぼろに聴こえた。
(…………そうだ……おまえを……ちゃんと抱いてやりたい……おまえの……喜ぶ顔が見たい……)
伸ばした指先に縄梯子らしきものが触れる。柘は懸命にそれを穴の底へと押しやった。
(早く……おまえを……)
柘の意識は途絶えた。
最初のコメントを投稿しよう!